日々のことを徒然に

地域や仲間とのふれあいの中で何かを発信出来るよう学びます

カンザン

2024年04月18日 | この木

 道の法面に桜に似たような花が今は盛りのように咲いている。花に負けないほど葉もついている。何度もこの場所を通っているが、これほど見事に咲き誇っている花の木があることに気づかなかった。桜ににているが桜では無いようなのでスマホを向ける。「レンズ」と「ナニコレレンズ」で検索、両方とも「カンザン」と一致したので、これで間違いなしとしよう。

 カンザンは「関山」書くようだ。日本原産の桜仲間で、4月下旬から咲き始めるサトザクラ系の八重桜(花弁は20~50枚)という。染井吉野が散った後に咲き始めるため遅咲きの桜になるそうだ。花もちがよく長く楽しめることから、学校や神社など多くの所に植樹されているという。これからは気をつけて見てみよう。
 
 もう少し学習する。豪華な八重桜・関山(カンザン)。学名は訓読みで「セキヤマ」。和名はカンザンと音読みです。別名としてセキヤマとも呼ぶようですが、一般的にはカンザンと呼んでいるそうだ。病害虫や都市環境に対して強く、街路樹や公園樹としても広く使われるという。今風の桜と言えそうだ。4月中旬から5月上旬くらいまで咲くそうだ。

 そんなに喜ばれる「八重桜・カンザン」がどうしてバイバスとなる山越えの道の法面に1本だけ咲いているのだろう。この桜は花びらの塩漬けは塩抜きして和菓子、あんぱん、ゼリー色々なお菓子のトッピングにご利用するという。もしや秘かにそのためにどなたかが咲かせているのかもしれない。

 (今日の575) 遅咲きの品種なればの鮮やかさ
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ムクロジの木

2021年04月03日 | この木

 名勝・錦帯橋から続く吉香公園一帯には吉川家にまつわる歴史を知るものが数多くある。その一つに吉川家歴代の神霊を祀る国指定重要文化財の吉香神社がある。本殿と拝殿、幣殿は独特な形式で、複雑な架構と屋根型式の巧みさは、岩国藩大工の高い技術が伺える。観光客の参拝も多い。

 参拝を終え境内を出ると右側奥に鳥居が見えるのは褒忠社(ほうちゅうしゃ)。ここは、「吉香神社の末社で、吉川家が初代岩国藩主が紅葉谷にある竜門司境内に節臣廟を建て吉川家の死節の臣を祀り回向所としていたが廃藩後これを神社に改めた」、説明札に記されている。ここへの参拝者を見たことはないが、先日、何枚も写真を撮っている人を見かけた。どういう人だろうと思いながら神社の横手に回った。

 そばにあった樹高は20㍍を超えるといわれた「ムクロジ」の大木が根元から3㍍あたりで伐採されている。黄色い花が咲いていた記憶はあるがいつ切られたかは知らなかった。確かに社の方へ傾いていたので倒木による危険予防かもしれない。「ムクロジ(無患儒) 社寺の庭などによく見かける落葉高木。昔、種子を追い羽根の玉に、果皮は石けんに使いました」、説明札が残されているのはせめてもの心遣いか。

 これだけの大きさになるにはどれほどの年月を過ぎたのだろうか。3年前の春、吉香神社横にあった県指定の天然記念物「エンジュの木」も、大樹の根本付近に大きな空洞の所在が分かり、数年以内に枯れ死すると診断され、惜しまれながら地上から3㍍ほどを残して伐採された。こうした歴史の生き証人のような大樹を生き残せるすべはないのだろうか。
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壁が塗られると

2013年12月09日 | この木


 何軒もの新築の家、ここ3年くらいは我が家から歩いて10分ほどの範囲で20軒くらい、いやもっとあるかもしれないが、とにかくたくさんの新しい家を見てきた。今も3軒の新築が進んでいる。工夫されたそれぞれの家に灯がともると一帯が明るくなたっと感じる。20年近く経つ我が家は古びて中年を超えた感じだ。

 最近の家つくりは細部まで計算され加工された部材で進み、子どものころに見た手作りの光景を見ることは少ない。そういう我が家もいくらかはそんな工法だった。それは資金がそうさせるので、潤沢なそれがあれば避けられることだが、サラリーマンの現実だった。

 今、関心をもって仕事を見に行っている新築中の一軒、子どものころに見た光景が見れる。作業場でノコやのみを使って木材を加工する。薄い赤みを帯びたノコ屑がその仕事の跡を残すかのように地面に積もっている。壁土に混ぜたワラも残っている。ねった壁土を運んだ一輪車に半乾きになったそれが初冬の日を受けている。新築で壁用の木舞が組まれると外からの光が半減しうす暗さを感じる。そこに壁土が塗られると新築中でも一気に暗くなる。暗くなるが家らしくなる。暗くなった奥から槌の音が聞こえる。

 外からは玄関と居間と思える広い部屋が見るだけで、壁の向こうは分らない。壁は上塗りされるのを待っている。木舞竹とそれに囲まれた四辺形の箇所の乾きの差が模様になっている。時間をかけて作られていく様子がよくわかる。建築中でも土壁がつくとどっしりとした落ち着きを感じるのは単なる郷愁だろうか。

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木の腹巻

2013年11月16日 | この木


 立冬が過ぎ「西高東低の気圧配置となり、北寄りの風が吹き寒くなるでしょう」という気象情報が出始め、短かった秋は西風に追いやられた。北日本では11月としては記録的な積雪をみたという。

 立冬の日、錦帯橋から近くの吉香公園一帯にかけ松の木へコモ巻が行われる。コモ巻きは松の木の害虫駆除として江戸時代から続くという。根本から1メートルほどの位置にコモを巻きワラ縄で上下を縛る。そのとき、虫が入りやすいように上側はゆるく下側は逃げにくいように強く縛る。これで害虫はコモに閉じ込められる。啓蟄のころに取り外し害虫から松を守る。立冬の日も啓蟄の日も風物詩として報じられる。

 4昔あまり遡ったころ、ご近所のプロの方に教わり我が家の庭で1度だけコモ巻のまね事をした。径は20センチほどの小さな松だったが、それなりに趣を感じた。取り外したコモに害虫はこもっていなかったと思う。

 錦帯橋の横山側たもとに「槍倒し松(やりこかしまつ)」がある。諸国の大名が他藩の城下を通る時、行列の槍を倒すのが礼儀となっていた。大藩が小藩である岩国の城下を通る時は礼儀を守らず槍を立てたまま堂々と通った。岩国藩の武士はこれに憤慨し、大きな松の木を橋のたもとに植え、槍を倒さないと通れないようにした(いわくに通になろう参照)。

 その松のコモ姿を撮っていたら「木が腹巻をしている」という子どもの声が聞こえた。その新しい表現に思わず手を打った。そして頂こう、と決めた。
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木舞と土壁

2013年10月25日 | この木


 知人の棟梁が棟上げした新築現場、散歩の途中に立ち寄った。「現場監督をお願いします」という冗談に応える意味でも。屋根瓦は葺かれ、台風や雨の襲来にもまずは一安心。工程の進捗のほどはわからないが、大工作業の音が心地よく聞こえる。

 目を引いたのは木舞(こまい)、これは土壁の骨組みになる。2センチ幅ほどに細く割った竹を柱と柱の間に縦横に並べ格子状に組む。竹はワラや麻の縄などで結わえ動じないようにする。組む作業はすべて手作業、機械化は不可能だろう。窓や扉以外はすべて木舞がつく。

 木舞が完成すると壁土を塗る。初めに荒塗り、格子の四角い空間が塞がれると、明かりが遮られる家の中が少し薄暗くなる。荒塗りの上に重ねて塗るのが中塗り、これは少し丁寧に塗る。最後は仕上げの上塗り、飾り壁土を使う。こうして3度塗りを両面から行う。土壁の厚さは10センチほどになろう。これで家は地震に耐え、外気の寒暖を和らげ、火事に対しては延焼を阻止する。50年近く前に建てた我が家が土壁の家だったことを思い出しながら、木舞を眺めた。

 荒塗りと中塗りの壁土、本当の呼び名は知らないが、赤土と呼んでいた。茶色で湿り気の強い土という記憶が残っている。これに繋ぎとなる短く切ったワラを混ぜ水で練る。粘くて手では練れない、機械力はない時代、若い左官職人が素足でこねまわして壁土に仕上げていた。いい練り具合を覚えるため、足の使い方も教えられながら。

 こうした日本の伝統的な工法による建築が少なくなった。棟梁は、伝統的な日本家屋の建築の好まれない理由のひとつに「工期の長いこと」を上げる。手がけている家の完成は年明けの3月頃という。クロス張りと土壁の違い、住んでみるとよく分る。壁塗り、見ているだけだと単純そうだけど、職人の技が潜んでいる。その塗りの機会に出会えるといいのだが。
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木の家にこだわり

2013年10月06日 | この木


 近所で棟上げがあった。棟梁はサラリーマン生活にサヨナラし、大工の見習い、夜は建築士資格取得のため学校、そして1級建築士の腕前になった昔の同僚。もと同僚の奥さんが「よくここまでやってこれました」と棟上げを見ながら感慨深げに話された。いや、よく頑張った、と心から思っている。

 棟梁は家つくりにはこだわりがある。そのいくつかを。何カ月か前、棟上げした家の「軸組模型」を完成させていた。模型は120センチ角は4ミリ角、3尺なら1寸、などと30分の1の模型を写真で見た。施主にはこの上ない喜びだろう。

 また、用材は自然乾燥さておいた手持ちの杉などを使う。毎年、材木市場へ自ら出向き、納得した材木を購入し保管している。準備した木に墨付けをする。最近はプレカットの普及にともない墨付け、刻みの仕事が少ない。これが出来て大工は一人前という。棟梁のもとで修練中の青年にもその一部を任せたという。刻み仕事は大胆に、しかし、慎重にやる。

 話には聞いていたが今回、古民家から出た古材丸太を使うことを当初から計画していた。棟上げの現場でその大きさに驚いた。長さは6メートルと8メートル、松などの古材の質感と飴色の艶、その重量感は白木を引き締める力強さを感じさせる。棟上げの前に、刻んだ材を仮に組んでみる「地組」をし、墨付け刻みに齟齬のないことを確認したという。

 棟梁は「木の家を作る」ことにこだわっている。やがて解体の寿命となったとき、材料が自然にかえれる資材を選んでいる。手間も時間もかかるだろう。そんなこだわりの家を見学したことがある。新建材を使わない家は玄関で違和感を感じる。しかし、玄関を出る時には穏やかな気分になっていたことを思いだす。「近くなので現場監督に来てください」と棟梁、じっくり仕事ぶりを見ようと喜んで了解した。

        明日からしばらくパソコンを入院させます。
        そのため、ブログを休みますが再開しましたらまたご訪問ください。
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「おやじ」ってなに

2013年08月09日 | この木
            

 地震の次に怖いのが雷、続いて火事で最後が親父。「おやじ、とは何か」と孫に聞かれ「弱った」という知人。最初の3つはわかるが人ではない、だから最後のおやじを人とは思わない。パパ、パパと呼ばれて喜んだのはわずかの間、反抗期前からは疎んじられ、とうとう、おやじとは何か、誰もたどる道かもしれない。「親父・おやじ」は父親を親しんで呼ぶときに使う。

 親父とは「一家の大黒柱」、家の中心となり家族を支える人。として尊敬される時代があった。今も大方の家ではそうだと思う。変な風潮でそうでない家庭が話題となり、ドラマになになるなどして、それが新しい家族関係のように持ち上げられる。核家族化の増加とともにそんな傾向になったが、三世代、四世代家族の時代には考えられない現象だった。

 この就職難、リストラばやりの厳しさのなか親父は家族のために頑張っている、これは間違いない。だから、何だかんだ言いながら、あるいは言われながらも社会は現実に動き、不景気でも経済は鈍いけれど回っている。ここにきて諸物価の値上がり、報道ではテン%近い食品もある。親父の収入減がますます親父離れになるのか。

 「親父の小言」のコピーをもらったことがある。詳しい由来は知らないが、短い言葉で「家業は精を出せ」「たんと儲けてつかへ」「朝きげんよくしろ」「人には腹を立てるな」など心の琴線に触れる言葉が40数項目ある。親父とは立派な存在である。
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寿命と樹命

2013年08月05日 | この木
           

 樹齢を人の年齢(出生からの経過期間)と同じにいい表せば「樹木が芽生えてから経過した年数」ということだろう。戸籍簿のない樹木にその証は年輪で分かる、この子どものころの記憶は今も生きている。その年輪は古木になると伸長の度合などから必ずしも年輪を形成しないという。大樹や古木の年齢測定は別の科学的手法がある。そして年輪は樹木すべてに備わってはいないことを知った。

 そういえば、吉香公園の全国第2位の長寿桜の証は吉川家元執事長の日記と写真から判明したともので、そこには科学的に測定したなどという説明は書かれていない。例年にない暑さの続くこの時期、じっと耐えている。秋になると落葉し、128年目の開花に備える。

 その桜の木の近くにこの公園で1番とのフジ棚がある。資料によるとフジはツル科の植物で年輪がないとか。このフジの根本は数匹の大蛇が絡みあったような姿をしている。そのからみのほどけた幹が思いの方角へ伸び、その枝葉がさらに伸び広がっている。

 花咲く時期に訪れ鑑賞し撮る人も多い。花も葉も散って丸裸な姿を見上げる人はいない。支柱に支えられてはいるが、枝葉の末端まで自由を満喫している。その様子は翁の風格を漂わせる。樹齢も無限ではなかろう、どこかに子孫を残しているのだろうか。
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ねむの木

2013年07月14日 | この木
            

 道の向こうの小高い丘の斜面、梢で小鳥が休んでいるような木が数本見える。何かと聞いたら「ねむの木の花」と教えられた。そう聞いた途端、なぜか「ねむの木学園」そして「宮城まり子」という思いが連続した。そのどれにも直接にも間接にもかかわっているわけでもないのに、この感覚は何なのだろうか。

 名前だけ知っているがそれがどのようなものか全く知らない。ネットでHPを開いた。「たくさんのサイトがあるのに、ねむの木学園を開けてくださってありがとう」という挨拶が待っていた。開設から46年目という。学園は「肢体に不自由、知恵に遅れを持つ子、両親のいない子、家庭での養育困難な子などに生活教育を受けながら義務教育を、と作られた養護施設がスタートと知った。

 宮城まり子、歌手だったことは知っている。歌詞を見れば歌える曲がある。「わたしゃ雪国薬うり あの山こえて村こえて 惚れちゃいけない他国もの 一年たたなきゃ会えやせぬ 目の毒気の毒河豚の毒 ああ毒けしゃいらんかね 毒けしゃいらんかね」。昭和28年に流行った歌謡曲というから中学1年のときだ。紅白歌合戦にも出たそうだから、NHKラジオで聞き覚えたのだろう。その2年後の「ガード下の靴磨き」、これも知っている。

 ねむの木は合歓の木と表すそうだ。合歓には「家族が仲良くする、喜びを供にする」という意味があるとこから、学園の名前になったのか、とHPを読みながら感じた。ねむの木の葉は、夜になるとゆっくり自分で閉じるそうだ。それがまるで眠るようなので「眠りの木」が「ねむの木」に変化していったという。小高い丘の斜面で今夜はどんな夢を見るのだろうか。
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佐々木小次郎とイチョウ

2013年06月21日 | この木
           

 「イチョウは生きている化石植物である。中世代つまり2億年程度以前の恐竜の時代に栄えていた」、これは公園のイチョウの木のそばにある公園管理者が作られた説明文。イチョウは秋のいろどりの木を代表する樹木で、日本人には親しまれ、ギンナンは和食の食材として知られる。説明はさらに続く。

 「当時は多くの種類があったが、今は一種類のみである。美祢にはイチョウの化石がよく出土するが、その葉は笹の葉のように、切れ込みが深くイチョウが針葉樹の仲間であることを示している」。美祢とは秋吉台や秋芳洞のあるあの市だろうか。イチョウが針葉樹の仲間であるとは、今のイチョウの葉からは思いもつかない。

 続けて公園内の説明。「吉香公園内にはイチョウ大木は何本もあるが、吉香神社の後ろには特に大きな木がある。イチョウもスギやクスノキなどと同じく非常に長寿で、巨樹が全国に存在している。特に大きいものは幹回りが20メートルにもたっするものもあるという」パソコン作成の説明はここで終わり。

 漢字表記は「銀杏」と思っていたが「公孫樹」も並記してある。公孫樹は植樹した後、孫の代になって実が食べれるというもので、中国語に由来するという。銀杏の由来も面白しろそうで「葉がカモの水かきに似ている」という中国語の発音からなど、言語の由来もまた面白い。

 ところで、佐々木小次郎とその正面に位置するイチョウの大木の長いにらみ合いが続く。はたして「ツバメ返しの剣」が見れるのだろうか。 

 今日は夏至、1年で昼が一番長い日。雨が4日も続き昼の長さわからず。市内の雨量観測点は累加雨量が警戒値を超え、注意報が出ている。明日は晴れ間がある予報、週末の仕事が待っている。
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