日々のことを徒然に

地域や仲間とのふれあいの中で何かを発信出来るよう学びます

リホーム

2009年04月30日 | 生活・ニュース
               

我家恒例のひとつになった床のワックス掛け、良く晴れた穏やかな日に行なっている。早くから決まっていた予定が中止になり、貴重な空白の1日だったが繰り上げて行なった。

この日は、子どものころの家族総出の大掃除とまではいかないが、小さな家具を動かしその後ろにたまった埃などを取り除くいい機会でもある。また、筋肉を使うことにもなり一石二鳥、一挙両得といえる。

あと数年したら外壁を手入れされることをお奨めします、我家を点検したプロの話。そのころは築20年ほどになる。リホームされた家を見ると「いいな」と感じてはいるが、いるべきものがいる。

加齢による体力と能力を回復させるリメーク策はないだろうか。雨が降ったら草木が生き返る、そんな即効性は要らないのだが。いま部品交換というわけにはいかないから、毎日のウオーキングと、融通の効かないブログをそれに見立て続けていこう。

ワックス掛けした床はその効果があったようで艶が戻った。使っているワックスには塗布頻度について1年に1回と注記がある。現職のころの全装置の運転を止めての定期点検も1年に1度だった。

(写真:遠めには美しい白壁にも補修の痕が幾つも見られる)
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渡る人がいない

2009年04月29日 | 生活・ニュース
               

毎年この日は錦帯橋祭り。無形文化財の踊り、奴に大名行列、火縄銃鉄砲隊による撃ち方などいくつものイベントや、テント市、茶席などがあり、行楽日和にも恵まれ橋周辺は終日賑わった。

今日の人出は4万人という。そんなかで珍しい光景、錦帯橋を渡る人が1人も見えない錦帯橋を発見した。早朝ならいざ知らず、これだけの人出がありながら無人の錦帯橋、箱庭に架けられた模型のように見える。

周りをキョロキョロして見たが、無人の錦帯橋にカメラを向ける人は見当たらなかった。もしかしたら「イベントの日に渡る人のいない錦帯橋」と撮るただ1人、つい欲張る悪い癖が出た。

錦帯橋は長年いろいろな場面を見てきたが、昼間に無人の錦帯橋は記憶にない。自分にとっては貴重な1枚かもしれない。アーチの向こうに見える人出がもう少し写りこんでいれば行楽の日の様子が分かるのだが、持参のカメラでは残念ということにしよう。

(写真:渡る人がなく模型のような錦帯橋)
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植木鉢の力

2009年04月28日 | 生活・ニュース
               

「植木鉢とは、植物を栽培または展示するために用いられ、植物の地下部を保護し安定させるための容器で、上面部分が開放され、底面には水抜きの為の穴が開けられた構造が一般的である」と解説されている。日本では植木鉢とプランターを形状的に区別することが多い、とも説明されている。

我家にも何10個かのそれがある。自慢ではないが高価な品はひとつとしてない。昔のレンガ色の素焼きに、最近買う物は百均の色や形ちが気ままな樹脂製が多く、数では素焼きをしのいでいる。

植木鉢の素材や色がなんであれ花たちは一向に気にせず、咲くと鉢も立派に盛りたてている。立派な鉢のあることも知っている。知人の出展したラン展を見た。花がよければ支える鉢も、素人が見てもうなるような鉢がランと共に展示されていた。そこにこめる熱意が伝わる。

近くの道沿いに置かれた8号ほどの素焼きの植木鉢。植わっているのはチロリアンランプ。逆三角形の花は高さも幅も3㍍あまりある。釣の浮輪のようでもあるが、名前から言えば赤いランプに似た花と呼ぶのだろうか。

その小さな鉢、その何10倍もある大きさの茎を支え花を咲かせ葉を茂らせている。普通の素焼きのそれにしか見えないが、水をくれる人の気持ちも汲み取れる鉢、それは名工の作かと思わせる力を感じる。

成長を続けているチロリアンランプ、どこまで伸び咲続けていくのだろう。観察をつづけたら何かを支える力が伝わってこないかと、虫のいいことを思いついていた。

(写真:数え切れないチロリアンランプ)
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山頭火の人形作り

2009年04月27日 | 陶芸
            

種田山頭火は形式に囚われることなく五七五を読んだ。「昭和の芭蕉」「漂白の俳人」「行乞(ぎょうこつ)の俳人」などと人それぞれの呼び方をされている。出会ったことはないが書物で見る山頭火の法衣をまとった姿、1度見れば印象に残る。

その法衣姿に引かれた者数名が、それを形ちにしてみようとある日の1日を粘土と過ごした。作り方は人形の各パーツを作り、それを繋ぎ合わせていく、一見簡単に思えた。

30㌘と40㌘の玉が2個ずつ、90㌘だ110㌘なだと各パーツを作る粘土の重量測定から入る。ここまでは全員同じに出来る。

取り掛かりは足から。足袋を履かせ草履の鼻緒を描きと細かい手作業、法衣には柄を忍ばせ、左右の手は親指を間違いなく刻み込む。その手が法衣の袖から出たように組合わせ、特徴ある杖を握らせる。なんとなく山頭火らしい。苦戦をいとせず黙々と進む。

顔、ここが人形成否の分かれ目。まずメガネに作りての特徴が出て面白い。ただ顔に比し大きめの目がねは共通している。ここが特徴か。丸い鼻、大きな口元とそれぞれが面白い。

おおよそ3時間、人形山頭火が完成する。顔、形、背丈、表情、全部がそれぞれ違ってそれぞれ面白い。記念撮影で第1スッテプが終了し素焼き前の乾燥に移る。色付け釉薬とまだ楽しみは残る。

(写真:記念撮影に並んだ人形山頭火たち)
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桜とデジカメ

2009年04月26日 | 生活・ニュース
               

C社のブログ、そこの訪問者が撮った各地の今年の桜が毎日アップされた。当然のこと素人写真。それでも遠景に近景、アップにロング、見上げたり見下ろしたりとあらゆる角度と視線から作品化されている。

その1枚ごとに撮影者のひと言が載っている。読みながら素人は素人なりに思い描いて撮っているんだ、そんな苦労を写しこんだ写真は面白く楽しい写真と感じた。この次に撮る時の参考にさせてもらおうとも思った。

錦帯橋と桜、この春ここを訪れた人が写した写真のコマ数はどの位だろう。デジカメになってフィルムのように撮った後の金額を心配しなくてよくなった。そのために偶然思いもよらないいい写真だ、と1人納得することがある。

桜が過ぎ各地のチューリップの開花がニュースになるころ、我家でも咲き始めた。そのチューリップが車の後部座席にも咲いた。少し傾いているがそれはそれで面白い。花の数を得したようだ。

窓ガラスの悪戯「こんな悪戯ならいつでもいい」ポケットのデジカメはそう言いながらチューリップに顔を向けた。

(写真:車の後部座席に並んで咲いたチューリップなど)
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没のようです

2009年04月25日 | エッセイサロン
               

早咲きしたもののその後で寒気が漂い今年の桜はいつもの年より長く楽しめた。今は濃い緑の葉を茂らし来年の開花に備え鋭気を養っている。自然は休むまもなく動いている。

そんな中で桜の写真、写しては消去、撮っては消去したが今年の桜も幾枚かPCフォルダーに眠った。ブログ用に縮小した桜の写真が何枚か画像フォルダーに残っている。桜は時期のもの、旬を過ぎてからは使いづらいので消去する。

消去しながら、エッセイの例会で聞く「没」という言葉を思い出した。毎月の例会で会員の創作エッセイの合評を行なう。

合評のとき、「いい作品ですね何処かへ投稿しました」「これは投稿するのですか」などと聞く。投稿済みで未掲載の時は「没のようです」、何食わぬ顔で応えるが、心中は苦い経験が何度もある。

未掲載といえば多少自信があり「その可能性」は零ではないという感じもするが、没は沈むイメージで掲載の望は低くなる。

そんなことを思いながら写真を消去していると、消去される1枚1枚はブログに載ることを待っていたろう。こうして消去されると、投稿して紙面に載らなかった時の自分と同じ気持だろう。ちょっとすまないと思いながら消去ボタンを押していた。

(写真:消去した桜の1枚)
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ぽぽいっと

2009年04月24日 | 生活・ニュース
               

「ぽぽいっと、窓から捨てれば車はきれい」。これは、道路清掃を定期的にされるボランティア団体の活動報告の1節です。

その道路は市街地を避けるバイバスで交通量は多い。しかし、健康作りで歩く人はよく見かけるが、地理的に生活道路とは言い難い。そんな道沿いに吸殻や空き缶が沢山あるということは、活動報告の指摘どおり通過車両からの投げ捨てに違いない。これまでも吸殻や空き缶の多さは何回も報告されている。

道路は灰皿やゴミ捨て場ではない。吸殻も空き缶も自分の車に置くことが嫌なら、道路も嫌だという、思いやりのある運転をして欲しい。また「火のついたたばこのポイ捨てには本当に腹が立ちますよ」と報告は優しく諌めている。

これまで雑草が燃えたことはないが、いつ起こるか分からない。今年は野焼きなどの事故も多く、心配される気持ちが良くわかる。

車の便利さを生かした楽しい生活は必要だが、自己中心的ではいけない。人や環境にも配慮した運転マナーが交通安全に連なり、ボランティア団体の問いへの答えにもなる。体を守ると同じに、気持ちにもシートベルトを締めてハンドルを握ろう。

(写真:心なごむ道沿いのしば桜。文章の場所とは異なります)
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朱書きの戒め

2009年04月23日 | エッセイサロン
               

2009年4月23日 毎日新聞「はがき随筆」掲載

 「教えさせてもらう」と大きく朱書きし、余白へ説明の要点をびっしり書き込み、赤線も引いてある。パソコン講師デビューの日の心構えが残っている自作のテキストが見つかった。

 朱書きから5年。そのことはすっかり忘れ、講師慣れし「これでいいのかな」と思いながら大きな工夫もなく過ごした。講師をするという緊張感、退屈させない進め方、新しい手法を取り込むなど、眠っていた初心を朱の8文字が覚ましてくれた。

 受講者が喜び、そこに新しい手応えを感じるテキスト。初心の心構えに経験を織り込んで見直そう。朱色の鉛筆と一緒に。

(写真:掲載紙面の1部)
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ビワの袋掛け

2009年04月22日 | 自然 季節
               

染井吉野は今日、青森で満開になったとか。当地では桜は遠のき田起こしが見られ始め、揉み撒きされた知人もある。まもなくお玉じゃくしも姿を表す。季節は移動しながら変わっている。

ある駐車場で、向こうに見える木の枝の先端に黄色っぽい何かが見える。鳥の姿とは少し違う。近づくと黄色の主はビワ(枇杷)の実を守る袋だった。袋は摘果と同時に行なう、という。

「桃栗3年柿8年」は良く使われるが続けて「ビワは早くて13年」、ビワにまつわる言葉があるそうだ。そんなに苦労した実だからあの様に大きな種子が出来るのか、そんなことを思う。

ビワの葉には薬効がある、乾燥したビワの葉を茶葉の変わりにして「ビワ茶」なるものを飲まされた経験がある。子どもころそれが何に効き目があるのか知らなかったし、聞いても忘れているのだろう。味も覚えていない。

多いものは10個くらいもひと塊になる実、オレンジ色になる梅雨のころから7月にかけてが食べころ、おとなしい甘さがいい。それにしても高い枝の先端に袋がけ、感謝しながら口に運ぼう。

(写真:葉の緑色、袋の黄色、空の青色のさわやか3色)
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祖父の50回忌

2009年04月20日 | 生活・ニュース
               

その日は、5月に似つかわしくない篠の突くような雨が朝から降っていた。昼ころ、祖父が往生をとげたという知らせが職場に届く。祖父は楽しみにしていた関西旅行から帰って10日目くらいに庭で転んだ。それが引き金のように床に臥しまもなくの往生で、祖母のそれから8年が過ぎていた。

その祖父の50回忌の年に当たる。案内すべき人たちはすでにお浄土へ、家内と2人が仏前に座り、御師匠寺のご院家さんにお勤めいただいた。心身にしみこむような読経に、蝋燭の火がいつもより高く登るように輝く。祖父が喜んでいるようです、ご院家さんと話す。

門徒必携に法事の意味が載っている。なくなった人をしのぶことを、「とぶらう」いう。とぶらうとは「訪う」という意味で、訪ねていくことだ。現存の人なら世界の果てまででも訪えるが、なくなった人を訪ねるにはどうしたらよいのだろう。

ひとつには、ありし日の故人の面影をしのび、感謝するという世俗的な意義。この場合、故人のこころを安んじる方法は、後に残ったものが仲よく幸せに暮らすことだ。なぜなら、それが人間だれしもの、後に託するのが願いですから。

ふたつには、故人の命日を縁として、自分自身が仏法に触れ、教えを聞くという宗教上の意義。この場合、故人のこころを案じる道は、自身が信を得て、信仰の喜びに生きること、それがみ仏になられた故人の願いだから、という。

今は、毎夕べに仏飯をそなへ感謝の合掌、法話を年に何度か聞く、毎月の墓参りくらいの信心だ。ただ、真摯に生活することは信条としている。来年は母の25回忌、その数年後に父の50回忌が待っている。来年は子や孫、弟妹も集う法要になる。

(写真:門徒必携や勤行集)
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