日々のことを徒然に

地域や仲間とのふれあいの中で何かを発信出来るよう学びます

タイトルに悩む

2009年06月30日 | エッセイサロン
               

「盟友中の盟友を切る」という新聞のサブタイトル。今はどんな理由で誰が誰を切ったのか大方の人は分かる。しかし時が経てばその中味は分からなくなる、いや忘れられてしまう。

エッセイ教室で講師はタイトル(題)について、「大きすぎず、硬すぎず、難しすぎず、美しすぎず、思いがすぎず」(これを<5すぎず>と呼ぶことにする)また、「読者の目を引き、簡潔で分かりやすく、けれども文芸作品としての味わいやセンスもほしい」と随筆におけるその重みについて語られた。

「はがき随筆」のタイトルは8文字以内、投稿要領にきちんと書かれている。前回の勉強会のときにも「タイトルはひとつの作品」と説かれた。5すぎずを考えながら8文字のタイトルを考える、頭の体操だ。

講師は「海外旅行の思い出」という事例を示された。上手くないタイトルということはよく分かる。このブログのタイトルとして「タイトルの付け方」としたら、8文字だが何も教わってない時の付け方になる。「タイトルは文芸作品」では大きすぎて中身を表していない。

「タイトルに悩む」とした。確かな命名方法を見つけられないでいつまでもその進行形が続く、そんなことを考えた。

06年9月から「はがき随筆」へ投稿を始めた。掲載されたタイトルを抜き出してみた。
彼岸花のころ、虫の知らせ、40の偶然、成長した虫、もう一つの戦争体験、引き継ぎ、にわか雨、新聞ありがとう、息子の涙、傾ける、「ん」を食べたか、朱書きの戒め、張り紙。5すぎずに照らしながら作品を読み直してみよう。

(写真:これのタイトルを考えている)
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帰り道

2009年06月29日 | 地域
               

下校途中のひとりの男の子が道路脇の排水口蓋の上で、長靴で流れる水をふさぎ止めてはその水を流したりしている。何度も繰り返している。ちょうど強い雨脚だがかまう様子もなく繰り返している。

それは何か思索しているようでもあり、悲しみを我慢しているような姿でもある。ちょっと気にしながら眺め始めた時に同級生くらいの通りかかった男の子が声をかけたようだ。

二人は話しながら同じ方向に歩きだした。声をかけた男の子は傘を持っているのにさしていない。ランドセルに水が入らないかと心配したが、すぐに強い雨脚の向こうに見えなくなった。

男の子は流れてくる雨水をふさぎ止めては流す、その繰り返しを楽しんでいたのだろう。しかし、そんな姿をふと気にかけたのは遠くに住む小5の孫と同じくらいの学年に思えたからだろう、と言い訳をしてみた。

降り始めからの雨量は市内山間部では夕方までに100㍉を超え、旧市内でも60㍉くらいの雨量が観測されている。明日にかけて多い所でさらに100㍉近くの雨量予報が出ている。空梅雨でまとまった雨が欲しいかった地域には慈雨となっただろうか。この上は災害のないことを祈る。

(写真:雨の中、黄色い傘をさして遊ぶ男児)
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アユの苦難

2009年06月28日 | 自然 季節
               

梅雨入りしたが雨量が例年に比べ極端に少ない。地域によってはその3分の1ほどにも達しない地域もあると報道され、早くも節水に入ったダムもあるようだ。暑さに向かうおり気になる。水なしの生活は考えられないから。

水量は少ないがアユ釣りが解禁されておおよそ1ヶ月になる。店頭に並ぶアユは他県の名前が多い。地元を流れる川の水量の少なさが原因かもしれない。川の水が少ないとアユの餌になる苔の生育や水温などが適さなくなるという。岸辺という潤いが護岸というコンクリーの壁に置き換わったことにも原因があるかもしれない。

水量による生育環境の悪さだけでなく川鵜や鷺からも攻撃されている。昔はこれらの猛禽類は鷹の餌になったらり、巣の卵をカラスが襲たりして人間と共存できる数が生存していた。人が森林を切り開き猛禽類の住む場所を奪ったために人との共存が難しくなった。

物知りの先輩から聞いた猛禽類の話を思い出した。錦帯橋上流で見た川鵜、川幅のせまくなったところへその一団が思いのままに素潜りしている。漁獲量を下げる大きな一因だと眺めたことがある。

カラスの名前の由来は、巣を襲うとそれを空にするから「カラス」なんだ、先の先輩はそう言って笑わせながら「人が強くなりすぎ自然と調和のとれた世界を壊したのは人間なんですよ」という話を思い出しながら夜明け前のアユ釣りの人を橋の上から見ていた。

(写真:錦帯橋下でアユ釣りを楽しむ人)
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猛 省

2009年06月27日 | 生活・ニュース
               

パソコンが故障し入院、心配した検査結果は軽い手術で済むことが分かりほっとしている。「バックアップを確実に」を守っていれば入院しても何も心配することはなかったのにと反省しきり。

初めの2、3日は何か落ち着かなかった。急ぎや大切なメールは入っていないか、もう少しで書き終わるエッセイ、レイアウトだけ済ませた孫への新聞、送りたい写真などなど仕掛がたくさんある。そんなことばかり思っていた。

1週間が過ぎた。慣と軽い手術で済むという連絡を受けたからだろう、さほど気にしていない自分に驚く。退院してもデータの作り直しなど介護が必要な故障だったらこんな呑気な事は言っておれないだろう。

便利な機器もひと角間違えると迷路に入る。素人でも長く使っているといつの間にか分かったように感じ、自信がついたような錯覚を起こす。それが過信につながり知らぬ間に失敗を呼んでいる。

マイパソコンを使い始めて10数年以上になる。初めての愛器入院は習い始めに教わった初歩を思い出させてくれた。初心に返ることは歳とは関係ないことも。そう思えば手術料は安いものだ。

(写真:目に見えない情報が行きかっている青い空)
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酒の肴

2009年06月26日 | 生活・ニュース
               

酒を飲むときにつまむものや食べるものを肴と呼ぶ。「主人は晩酌を欠かすことはありませんが、刺身が肴なら文句を言わないので楽です」とある奥さんが近所の魚屋で立ち話。毎日、刺身をつまみに晩酌するとは豪勢なものだ、若い時に思った。

仕事の帰り、仲間と安く一杯やるときの肴は刺身など思いもつかなかった。大方は身の丈にあった乾きもののおつまみだった。その代表格が「柿の種」。ピーナツが混ざっていると豪華版だった。

米菓子の一種でもち米を練って小さく切り、醤油で味付けし焼いた菓子をその形から柿の種という。今の子どもたちはこれは菓子だよと言って、そうだという返事が返ってくるだろうか。腹の足しにはならないのでいくらでもつまめた。

歳を重ねるにつれ柿の種がチーズになったり生チョコだったり、おでんのときも刺身のときも、お店にお任せのときも…、腹一杯のときは「乾きもの」と注文。お店も心得たもので小さな器にごく少量だけのせていた。

柿の白い花を見たのはついこの前のように思ったが、緑色の実がついている。柿を収穫する人がすくなったと聞く。その季節になると道沿いの柿木の根元に落ちてつぶれたそれをよく見る。なんとか工夫ならないものだろうか。

(写真:青い柿の実の味はどんな味だろう)
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曲りに習う

2009年06月25日 | 生活・ニュース
               

曲げさせられることはあろうが「曲がったことは嫌い」というのは普通でこの反対は口にしにくい。最近「正義が曲げられたと」いって辞任した大臣の話は記憶に新しい。世論調査では7割以上の人が辞任した人を支持した。

美しい曲がりもある。日本庭園で見る松の木、幹も枝も周辺に合うように曲がったり、曲げられたりしている。その曲がりに感心することはあっても、曲げたと言って怒る人はいない。

ある旧宅の日本庭園を任されている庭師、キセルに火をつけながらこんな話を聞かされた。枝も幹も曲げる時には木と話しながら曲げる。痛がって悲鳴をあげないようにする。次に四方八方から眺めて木が喜ぶまで手直しする。たかが一枝、されど一枝ということです。

若い時に聞いた話。思い出してみれば松の木の枝ぶりを整えるだけでなく、その内容は広く通用する。1服めの吸殻を手のひらに落とし、2服目のきざみを詰め、手のひらの吹穀でそれに火をつける。熱くないかと尋ねたら「これも修練」と笑って立ち上がられた。

実がたわわに生っているがその根元が直角に曲った梅の木を公園で見つけた。この曲がりは梅の木の意思ではない。だから切られずに生き延びた。こんな曲がりもある。大蛇のようにうねった幹、それに生えた苔はともに歳月を感じさせる。

(写真:直角に曲げられた梅の木)
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オタマジャクシ

2009年06月24日 | 自然 季節
               

梅雨入りの日に降ってから久しぶりの雨は乾いた田畑はもちろん小さな庭の花も潤した。が、梅雨らしいしとしとした雨ではなかった。最近は降れば大雨や洪水、雷注意報が防災メールで頻繁に送られてくる。梅雨らしい雨に出会いたい。

雨上がりの田んぼは満々と水が張られている。オタマジャクシが忙しく尻尾を振り時には頭をぶっつけあいながら苗の間を動く。イモリが赤い腹を見せながら体をくねらせる。暑いからかカエルが見えない。

稲の植え付けが終わるまではカエルの姿は見られない。それが終わるとほどなくオタマジャクシが姿を見せる。各地でオタマジャクシが降っている。県内でも今朝降ったという。もしかして神の国から降りてくる途中で嵐にあい、水面でなく地面に落ちたのかも知れない。

白く輝く太陽が水面に映る。地上の出来事をお天道様はお見通し、稲もオタマジャクシも水のあるとき十分に育てと声をかけている。のどかな田園風景だ。ふと思った。田の水がなくなったらオタマジャクシはどうなるのだろう。

(写真:水面に映る太陽は眩しい)
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街灯画伯

2009年06月23日 | ウオーキング 散歩
               

夏至のころになると夜明けが駆け足でやってくる。晴れた日の早朝ウオーキング、4時半くらいからは分刻みで明るくなるのを感じる。ふと眼をさまして窓外の白さに驚かれるかたもあろう。

夜明けが速くなると「夜勤を終えて早く眠りたい」といっている街灯のぼんやりとなった灯りを「ご苦労さん」と見上げる。街灯の種類も多い。蛍光灯に水銀灯に行燈型、取り付けは電信柱に単独の柱、軒下とその時々のいわれを感じる。

ウオーキングの道沿いで出会うなん何10本という街灯に1本だけ橙色の明かりがある。その明るさはほかの明るさの倍くらいに見える。単独の高い柱の上から照らされる周囲は夜目にも色づいて見える。

その街灯を画伯と勝手に呼んでいる。桜が咲くと花の隙間からのこぼれ灯、花が済み葉が散ると小枝1本まで、葉が茂るとその文様、桜の四季を灯りの色に染まったアスファルトのキャンバスに描きだす。

それは立体感も躍動感も感じない平面で黒一色の影絵だ。そんな絵も何年も見続け踏んで通るとウオーキングの1部分になってくる。自分ひとりの自然美術館だ。

なんでもない物言わぬ風景も気をつけてみれば何かを感じる気がする。最近「老鶯(ろうおう)」という言葉を知った。俳句の季語で夏。意味は「春過ぎて鳴くうぐいす」をいう。幾羽もの老鶯の声を聞きながら白む空を見上げながら両手を振って進む。

(写真:黒いだけの茂った葉の影絵)
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旬は大切

2009年06月22日 | 生活・ニュース
               

知人や親戚から採りたての野菜をよくいただく。畑の帰り回り道をして届けてもらうこともある。留守をしていて玄関に置いてある土のついたそれは畑の匂いを感じる。

畑のない我が家ではプランタンにネギや春菊が数株植わっている。必要な野菜は店に並んだものが食卓にのる。そんなことで頂く野菜は食卓と胃を満たすだけでなく家計出費の抑えになる。本当にありがたいことだ。

ゴーヤジュースは我が家の夏場の健康飲料、安価なゴーヤを見かけると買いそれ用に加工し冷凍保存する。妻の考えた苦味をやわらげる方法で日に1回は大きめのコップで飲む。そのゴーヤを2株植えた。

同じ時、キュウリも2株植えた。育ちは胡瓜のほうが早く長さ30センチほどのものが3本初収穫できた。ずっしりとした重さ感じる。さっそく生で味わう。うまいと思いながら、頂くそれに比べると少し硬めの感じがする。

「少し大きくして収穫しよう」この欲張り根性がわざわいし「少しうれすぎた」初収穫のキュウリになったようだ。物事はほどほどに、はじめてのキュウリ栽培で自然の掟を改めて教えられた。

頂く野菜の美味さ、それは単に土が付いていたり採りたてで新鮮だからといだけでなく、そこに採るべき旬が加わって本当の美味さを醸し出しているのだろうと思った。頂く野菜への思いが変わる。4本目のキュウリがまもなく採れる。次は旨く収穫する。

(写真:欲張りすぎてメタボ型に成長した初収穫の胡瓜)
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入院検査

2009年06月21日 | 生活・ニュース
               

保証期間の過ぎたパソコンが富士通病院で入院検査を受ける。手続きのとき「結果によっては外科手術になるかも知れない」という説明を受ける。

入院検査手続きの前にパソコンに詳しい先輩に診断を依頼した。、手続きの参考にになる沢山の知恵をいただいた。おかげで手続きの折衝はスムースに済んだ。プリンターの入院手術のときは退院まで2週間かかった。今回もそのくらいの覚悟が必要だろう。

身の回りに存在して生活の1部になっている物は、一時的とはいえその姿を隠すことは大きな穴が空いたと感じる。たかがパソコン、されどパソコン生活になっている。これが家族身内に置き換えると気が重くなる。

ブログの更新も思い通りにならないかもしれないが、工夫しながら続けたい。中断することがあるかも知れませんが、ご訪問をお願いします。

(写真:何の検査も受けずに落下した梅の実、これが自然かもしれない)
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