日々のことを徒然に

地域や仲間とのふれあいの中で何かを発信出来るよう学びます

10億円当たったら

2023年11月24日 | 昔のお話し
 

 宝くじ、良く買う人が、買わないでとやかく言う人に浴びせる常套句は「買わなきゃ当たんないんだよ」。だけど、買ったってぜったいにあたらないんだな、これが・・・。だから一番賢いのは「宝くじ 見ない 買わない 夢見ない」。これはある雑誌の別冊付録で「職場の緊張閑話 人生わりきり心得帳」の一節。

 年末ジャンボ宝くじの発売が始まった。大みそかまでの大きな夢と希望を抱かせる。しかし、8月に抽せんがあった「サマージャンボ宝くじ」で、沖縄県那覇市から当選が出た1等(5億円)と1等前後賞2本(2億円)の計7億円が11月半ばになってもまだ換金されていない、という報道があった。ズボンのポケットに残っているのではなかろうか。

 宝くじで「10億円当たったらどうする」というと問いかけに躊躇なく「すぐ仕事を辞める」。普通の庶民生活では辞めなければ使い切れないかもしれないと思う。それは、仕事の関係で10億円あまりの現金を目の前にしたことがある。その現金の山を思い出しながら、ありすぎても使うことに苦労するだろうと思ったことを思い出す。

 ある時期、交替職場でグループ買いをしていた。10番違いで1等が外れたことがある。当選金額は忘れたが、「当たらなくてよかった、何も変わらなくて」といいながら残念会をしたことがある。1等10億でなく1億にすれば喜ぶ人が増え、売り上げも増えるのではないかなあ、何年も購入していない者のひとり言。

 (今日の575) 酔っぱらい買ってはならぬ宝くじ
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モグラの通路

2017年03月24日 | 昔のお話し

 公園の広場、何か所も土が筋状に隆起しているが不連続。子どものころ畑で教えられた「モグラのトンネル」だと気づく。跡をたどって見ると、花畑の下あたりから出入りしたように思える。地下で争いが起きたのか、それとも地上の春の気配を感じてなんとなく気の向くままに掘り進んだのだろうか、年中地中の生活に切りをつけようとしたのか、勝手に思う。

 モグラのトンネルを先に確かめた人がいたようだ。隆起した一か所の土が除かれていて、そこにはこぶし大の穴がくっきりと表れていた。トンネル状のモグラの通路が奥へ延びているのがよく分かった。人間がトンネルを掘るときは大量の土砂を排出するが、そんな痕跡はどこにもない。素晴らしい技能の持ち主だと改めて敬意を表す。

 モグラ、漢字では土竜と書くらしい。何度か干からびたのは見たが生きているモグラを見たことはない。子どものころそれを見て「太陽に当たると死ぬ」という話しを信じたが本当はどうなのだろう。棚田を守る大事な仕事の一つにモグラとの争いがある。それは棚田の水抜けを避けるため、と手作りの捕獲器を手にしながら説明してくれた知人の棚田は急な斜面の中腹から麓に向けて幾段もあった。

 モグラにまつわる昔話もいくつかある。モグラが生きていく方法、生まれた子どもを幸せにしたいなど擬人化された姿で話が進む。そんななかに地下暮らしになった一話がある。地を掘って蔵に穴をあけ穀物を盗んだモグラに「娑婆には置けない、土に潜って地の下で暮らせ」と神に言い渡され今のようになったとさ。
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金正院の内裏雛

2014年03月04日 | 昔のお話し


 もう一日ほど内裏びな。2014年2月15日の「広報 いわくに」に、岩国の昔ばなしとして先に載せた「内裏びな1~3」のお話が載っている(全文)。

 その音、錦見の自銀屋孫三郎という商人が、広島の和泉屋という商人の娘を妻として迎えました。その際、和泉屋では何代にもわたって伝来していた雛人形を与えて嫁入りをさせたそうです。
 しかし、その娘は間もなく亡くなってしまったため、雛を入札で手放すことにしました。その結果、鍛冶屋町(現在の岩国二丁目)の長谷屋助右ヱ門が買い取ったのですが、雛があまりに大きかったために次の買い手がつかず、長い間、助右ヱ門の店にありました。
 その後、文化11(1814)年2月12日ごろ「体は人形遣いに売って、衣装は袋物(袋状の入れ物)などに仕立てて、ばら売りにするのが良いのではないか」という買い手がおり、助右ヱ門はそれに同意しました。
 ところが、15日の夜から、助右ヱ門の家でどこからともなく泣き声が聞こえ、籠(笛の一種)のような音がして、また次の夜も同じことが起こりました。そこで、近所の人たちと相談して、家の中をいろいろ探し、床板も剥がしてみましたが、何も見つかりませんでした。
 さらに詳しく調べていくと、戸棚の中から聞こえるようなので、開けてみると雛櫃(箱)があり、その中から聞こえるという結論になりました。
 ふたを取ってみると、女雛が額から汗を流して泣いており、皆が奇妙な思いをしたそうです。その後、これを伝え聞いた大勢の人々が集まるようになったため、助右ヱ門は雛を自銀屋へ返し、自銀屋はこれを金正院にあげることとしました。これが「金正院の内裏雛」です。

 なお『岩国沿革志(怪談録追加。実事談)』編者の藤田葆は、幼いころに金正院でこれを見て、2 ・3歳の子どもくらいの大きさがあるため処理に困っていたのももっともであること、その後、住職に確認したところ、半分くずれ落ちていたために川へ流した、と答えられ惜しいことだと記してぃます。

  金正院:大明小路(現在の岩国一丁目)にあった寺で、明治に入って川西の観音院と合併し、
       現在、同名の寺が川西にある。
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内裏びな 3

2014年03月03日 | 昔のお話し


 おばあちゃんの考えは、まことにもっともなことなのですが、いつまでもおくわけにはいかないので、いちおうみんなで相談をし、それぞればらして、とき売りにすることにし、内裏びなの体は、川原のてごっかいにうり、衣装は余りにりっぱなものなので、ふくろものにでもしたてるがよかろうなどと、おはなしもまとまりました。

 ところが、どうしたことでしょう。2月15日の夜になると助左衛門さんの家のどこからともなく女の人のしのび泣きの声がもれてくるではありませんか。それに悲しみをおびた笙・ひちりきの音などもまじって、かすかに聞こえてくるのです。

 「へんだね。なにごとだろう」
 「女のひとのしのび泣きといい、さびしい笙やひちりきのね」
 「まるで、狐にはなをつままれたみたいね」
 「おかしいわ。なにか悪い知らせではないじゃろうか」こんな会話が、家のなかを流れていました。

 「さがしてみようか」「こわいね」そのしのび泣く声は、どこからともわからぬもので、とらえどころがありません。隣りのへやとおもえば、またこちらへ、こちらと思えば、またあちらと、変わっていきます。

 これは、きっと、内裏びなに違いないと、けんとうをつけて、大きい箱のひもをほどいてみると、これはどうでしょう。おんなびなのひたいには、ぐっしょりと汗がでているではありませんか。助左衛門さんをはじめ、家族のものは、デンキにでもうたれたように、ぴりッとして目をみあわせました。

 おばあさんの目からは涙が一すじながれていました。「いわんことじゃない。内裏びなにはのう、しょうねがあるわい。死んだおきくさんのしょうねがはいっちょる。ばらして、ときうりするのはやめんさいッ」と、また、「せっかくお金を出して買ったものだけど、わけをいうて、白銀屋へ、おかえしするがええ、そうおしい」といいますものですから助左衛門さんは、ばらしてとき売りすることをやめ、車にのせて、白銀屋までお返しすることにしました。

 ことの次第を、じっときいていた孫三郎さんは、ぴたりとひたいをたゝみにつけて、びっしょりと汗をかき、はらはらとおちる涙を、はらいもせず、「わたしがわるうございました。なくなったお菊になんといっておわびしたらよいやら、ほんにほんに穴があれば、入りたい思いでいっぱいでございますよ」と、いくえにも頭を下げて、おわびいたしました。

 それから内裏びなは、もとの白銀屋さんへかえりましたが、孫三郎さんは心もおちつかず、家族の人びとと相談をいたしまして、金正院というお寺に納めることにいたしました。 (おわり)
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内裏びな 2

2014年03月02日 | 昔のお話し


 ところが、世の中には、よいことがあればその裏がえしのような悲しいことがまっているものです。その例にもれず白銀屋さんのいえにも悲しみごとがまっていました。というのは、このはなよめさんはふとしたことから病気になり、いく日もたたないうちに、なくなってしまいました。

 さあ、たいへんです。今までのよろこびがいってんして大きな悲しみとなり、白銀屋さんのいえは、火の消えたあとのように、沈んでいきました。がっかりしたのは、孫三郎さんだけではないのです。いえのものもポカンとしてあっけにとられどうしたらよいかわからないくらいでした。

 それからおそうしきもすみいく日かすぎていきました。むかしのことで、家のものが、しなもののしょぶんをすることになり、その中に内裏びなもはいっていました。いえのものが「このだいりびなも入札しようではないか。なくなったものは、しかたないから」と、いえば、孫三郎さんもしかたなくさんせいしました。

 それから、買手をあつめて、きょうばいにしましたところ、かじや町に住んでいた長谷屋助左衛門さんという人が、内裏びなを買うことになりました。お金を支払って、おうちへもってかえるのに、とても大きくてもてあましたくらいでしたが、なんとか、お家までもってかえり、ながいあいだ、家のかたすみにどかりとおいて(その中なんとかしよう)と考え、しばらくそのままにしていたということです。

 文化11年の2月の中ごろのこと助左衛門さんは、家族のものを一間にあつめて、「じつはな、白銀屋さんから買った内裏びなのことだがな。あまり大きくて、使いものにならない。わたしもながい間もてあましている。なにかよい方法はないかね」といいますと、おばあさんが、「大きな内裏びなで、じゃまものになるかも知らんけどな、これは広島の泉屋屋さんに伝わったもの、粗末にしてはなるまいのう」といいました。

 「こういうようにご先祖から伝えられたものは、大切なもので、この内裏びなにも、しょうねがあるわいな、助左衛門や、おまえの考えはどうじゃな」と反対にたずねました。助左衛門はこれに困ってしまい、おいておくのもじゃまになるし、そのままではだれも買ってくれそうにないことがわかっています。

 「おばあちゃん、わたしも困っています。じつは、内裏びなをとき売りにしたらという人もあるので、そのこともみんなに計ってみたらともかんがえたのよ」といってあとはだまってしましました。  (つづく)
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内裏びな 1

2014年03月01日 | 昔のお話し


このお話は
「岩国の昔話と歌謡」(発行:昭和47年11月20日 発行所:岩国市立岩国図書館)より。

 広島の町の中の、和泉屋さんという大きなお店がありました。このお家では、かなり手広く商売をして、みんなよく働きましたので、いえはどんどん栄えていきました。
 ところで、このお店には、色白く、はきはきしたよいむすめさんがいました。なまえはお菊さんといい学問もよくできました。その上、きれいなむすめさんだったものですから、道を通る人びとも、このむすめさんのうわさでもちきりでありました。

 ある年のこと、お世話する人がありまして、おはなしが、とんとんびょうしに進み、岩国の白銀屋孫三郎さんのところへおよめいりすることになりました。広島の和泉屋さんとしても、かわいいむすめをお嫁にやるのですから、できるだけのことはして、にぎやかな門出にしてあげました。
 
 いくつものたんす、長持ちが、船便でおくられ、新港から、つぎつぎと陸揚げされました。ところで、これらたんす長持ちとともに、めずらしくすばらしいはこいりの内裏びなが、白銀屋さんのところへとどけられました。
 このだいりびなは、和泉屋さんのいえとしては、とても大切にしており、せんそからつたえられたもので、せめてかわいいむすめのおよめいりのお伴をさせたい、ご両親のやさしい心づかいのあらわれだったのでしょう。

 すばらしいこのおよめいりの日には、隣り近所はいうまでもなく、遠い在方からも、たくさんのけんぶつ人が、あつまってこのおよめ入りをみにこられ、すっかり感心してしまったということです。およめ入りの日には、家の内も外もぎっしり人でいっぱいにんりました。

 おむこさんの孫三郎さんは、はなよめさんを、おむかえしてうれしくてならず、はなよめさんをだいじにして、いっしょういけんめいに商売にはげみました。そのため、白銀屋さんは、ますますはんじょうしていきました。 (つづく)
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横山の白蛇

2013年01月04日 | 昔のお話し


 映像でヘビの紹介が多く見られるのは巳年ならではのこと。これを好む人はそんなに多くないように思うのだが、金運の使いといわれる。「抜け殻を財布に入れておきなさい」はそのいわれの証かも知れない。岩国市には天然記念物の「白蛇」が生息、地元では大事に保護され、白蛇神社が初詣でにぎわっている。その白蛇の話が「岩国の昔話と歌謡」(昭和48年発行)の中に「横山の白蛇」としてに載っている。(以下全文)

 元文三年、この年は藩主吉川経永の治世。二月末に吉川経永は用事で萩に下り三月中旬には岩国にお帰りになられました。この春ごろから疱瘡が流行し始め六月一日には錦川の出水がはげしく、錦見土手が切れるという大惨事がありました。

 六月三日に、横山の千石原御門のそばで白蛇が一ぴき姿をあらわしました。「あッここに白蛇がいる。めずらしいことだ。」というので、早速連絡をとり、御蔵元よりこれを捕らえさせ、御勝手にさし出し、医師方に見てもらうことにいたしました。

 その自蛇は長さが五尺、大きさ胴中四寸廻りもある大きい蛇だったことが記されております。同書によりますと、およそ自蛇には銀蛇・金蛇というのがいるらしく、これらは効用のないものだということでして、中でも日計という自蛇は毒蛇の一種で、この蛇に咬まれますと、一日の中に死んでしまうため「日計」と名づけたのだともいわれております。

 ところで、このたびの自蛇の形は、鱗(黄自三角形である)がとう組のように見受けられ、日の廻りが紅く、頭は平たく口は広く、歯の上の方には、ぐの目に二た通りあり、下の歯は一並にはえておりました。尾は打ち切られたようではみの尾に似ていると記されております。

 しかしこの自蛇は、まことにおとなしくて、沢山の人びとが見物しましたのに、少しも騒ぐ様子がなかったとかいうことでありました。かくしてこの自蛇は御馬屋で、医師方が見合い、竪割にしたとあります。

 恐らくこの自蛇をはじめて見た武士たちはきつとびつくりしたことであろうと察せられます。これは余談のことですが、その六月十八日には、吉川外記をはじめ職中の諸役人の不正があらわれ、八月十八日には罪状が明らかとなり、その日に処刑されたことが記録に出ております。
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