センスプロデュース研究所!

ヒトの五感と脳の関係、ヒトの五感の重要性の提唱、研究を行っている者です。

江の島神社に来ています!

2019-09-03 00:00:30 | 癒し(セラピー)

久しぶりの江の島入りになります。何時もは、千葉から鎌倉駅で下車して「江ノ電」に乗って江の島に入りますが、この時期、夏休みや週末には鎌倉駅が混雑して、江ノ電に中々乗れずにホームに人が溢れることもあります。

ですから、私は大船駅で下車して「モノレール」に乗って江の島に入ります。

大船駅発のモノレールは週末でも座って江の島まで行けるのでいつも行は、大船からモノレールに乗って、帰りには江ノ電に乗って鎌倉から横須賀線経由総武快速線で帰宅しています。

今回は、知り合いの方が江の島神社で「ビワの演奏」があるので来て欲しいと言われ、同時に臨時カメラマンとして撮影もしに来ています。

江の島神社を詳しくご説明します。

江島神社(えのしまじんじゃ)は、神奈川県藤沢市江の島にある神社である。旧社格は県社で、現在は神社本庁の別表神社。日本三大弁天の一つに数えられる。

祭神!

弁財天 童子像建立之記、宗像三女神を祀る。島の西方の「奥津宮(おくつみや)」に多紀理比賣命、中央の「中津宮(なかつみや)」に市寸島比賣命、北方の「辺津宮(へつみや)」に田寸津比賣命をそれぞれ祀り、「江島大神」と総称する。

江戸時代までは弁財天を祀っており、江島弁天・江島明神と呼ばれた。

 

現在の祭神は明治の神仏分離の際に改められたものである。辺津宮境内の奉安殿には八臂弁財天と妙音弁財天が安置されている。

歴史!

江島神社 境内、社伝によれば、欽明天皇13年(552年?)、神宣に基づき欽明天皇の勅命により、江の島の南の洞窟に宮を建てたのに始まると伝える。神仏習合により当社は金亀山与願寺と称する寺となった。『吾妻鏡』によれば、寿永元年(1182年)、源頼朝の命により文覚が島の岩屋に弁財天を勧請したとあり、これをもって創建とすることもある。歴代の鎌倉幕府将軍・執権や、代々の領主から崇敬を受けた。江戸時代には弁才天信仰が盛んになり、多くの庶民が参詣するようになった。

当社には岩本坊・上ノ坊・下ノ坊の3つの別当があり、それぞれ岩屋本宮(現在の奥津宮)・上之宮(現在の中津宮)・下之宮(現在の辺津宮)を管理していた。その中で岩本坊は総別当とされ、江島寺とも称した。慶安2年(1649年)に京都・仁和寺の末寺となってからは、岩本坊のみ院号の使用が認められて「岩本院」と称するようになった。三坊は競って当社の縁起を説いて回り、参詣者を集めた。そのうちに利権争いが起こり、寛永17年(1640年)、岩本院は幕府からの朱印状を得て上ノ坊を吸収した。後に下ノ坊も支配するようになり、岩本院が全島の権益を握ることとなった。

明治元年(1868年)の廃仏毀釈により三重塔の他多くの仏教施設や仏像などが破壊された。明治6年(1872年)には、仏式を廃して神社となり「江島神社」へ改称、県社に列せられた。同時に僧侶は全員僧籍を離れて神職となり、岩本院は参詣者の宿泊施設としても利用されていたことから、旅館となり「岩本楼」へ改称した。

 

他に江の島では「シーキャンドルタワー」と「サムエル・コッキング苑」があります。両方セットでキャンドルタワーからは天気が良ければ、富士山や江の島海岸が眼下に見えます。

タワーの下にある公園は「サムエル・コッキング苑」は、明治時代にイギリス人の貿易商人の「サムエル・コッキング氏」の別荘兼会社があった跡地です。

以前に、公園内にある。中国風の建物にベンチが置いてあり、そこでサンドイッチを食べていたら、木陰から霊的視線を感じて、写真を写したら「絣の着物を着た女性」が写りました。

明治時代にこの貿易商で働いていた人たちやお手伝いさんたちの浮遊霊が私に此処に、別荘と会社があったのと教えて呉れて「サムエル・コッキング苑」の存在を知ったものです。

本日も午前中に江の島神社とサムエル・コッキング苑」を探索しながら撮影し、お昼過ぎから江の島神社でのビワの演奏を聴いておりました。

天気にも恵まれ、観光客で賑わっておりました。荒木行彦


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