センスプロデュース研究所!

ヒトの五感と脳の関係、ヒトの五感の重要性の提唱、研究を行っている者です。

お盆の思い出!

2020-07-22 11:00:30 | 仏語

お盆とは、日本で夏季に行われる先祖の霊を祀る一連の行事。日本古来の祖霊信仰と仏教が融合した行事である。

かつて太陽暦の7月15日を中心とした期間に行われた。

明治期の太陽暦(新暦)の採用後、新暦7月15日に合わせると農繁期と重なって支障が出る地域が多かったため、新暦8月15日をお盆(月遅れ盆)とする地域が多くなった。

仏教用語の「盂欄盆会」の省略形として「盆」(一般に「お盆」)と呼ばれる。

盆とは文字通り、本来は霊に対する供物を置く容器を意味するため、供物を供え祀られる精霊の呼称となり、盂欄盆と混同されて習合したともいう説もある。

現在でも精霊ほ「ボンサマ」と呼ぶ地域がある。

私が子供の頃は、お盆と言えば、8月15日の前後、13日には、お墓前りして、お墓の前で、藁を燃やして「迎え火」をして、先祖をお迎えすると母親が教えてくれたことを思い出します。当時は、お墓に農作物、スイカやトウモロコシなどを供えて、手を合わせていました。

自宅に戻ってからは、お婆ちゃんが家に来ているよと言われても、姿が見えないので信じていませんでした。

そんな信仰の無かった私が、2007年の5月27日の朝方に不思議な「正夢」から霊的存在(魂)と出逢い、繋がりました。

そのことにより、私の眠っていた能力(霊感)が引き出されたように「霊的覚醒」をしました。

そして、その年の8月15日の朝方に、黒い人陰が枕元に立っていました。

背が高く、髪の毛をポニーテールにしていたので、直ぐに分かりました。

前日に、アマゾンからその方の「メモリアルアルバム」を購入し、机の上に置いていたのを覗き込むように見ていました。

直ぐに気付いた私は○○さん待ってと声に出したので、す~と消えてしまいしました。

消える前に「私に一礼しました」。ありがとう!さようならと声にならないメッセージが伝わりました。

人生初の幽霊の存在なのに、恐怖心など一切なく、切なさと悲しみに涙が出ていました。

本来ならば、映画のように抱きしめてさようならを言いたかったのに、直ぐに消えてしまうなんて、あまりに切なすぎます。

実家に戻る前に、私のところに挨拶しに来たのだと分かりました。

こうした経験から「お盆には」精霊が戻って来る!そして、送り火で天空に帰ることを信じて疑うことはありませんでした。

こんなことを皆さんに話すと「あり得ない!信じ難い」と否定的になり、私のことを嘘つきだと中傷する人まで居られます。

ですから、人にはあまり話していません。信じて貰える人にしか話せないのです。家族すら私のことを頭が可笑しいと言われるほどです。

その後は、姿も現さないし、視ていません。

それでも、不思議な出来事や気配などを知らせてくれるので分かります。感じます。

以前に、その方のお墓参りに行った時に、後にメッセージを貰い「私は其処に居ません!お母さんと行彦さんがお墓参り」に来てくれた時だけに戻りますと言われ、それは驚きました。

まさしく、千の風の歌詞のようでした。千の風がヒットになった年も偶然に2007年でした。

東京出身の方々はお分かりですが、お盆と言えば「新盆」7月13日から始まります。つまり、今週がお盆の期間となるものです。

千葉や神奈川では、お盆と言えば「旧盆」の8月15日となります。

その前後にお墓参りして、迎え火と送り火を焚くものです。

今年の私の旧盆は、離婚届を出して、引っ越します。一人暮らしの予定にしています。

てすから、借り入れた部屋のベランダで、迎え火を焚いて、最愛の人を迎えたいと思います。

センスプロデュース研究所、葛西行彦


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神智学の推進!

2020-04-21 00:00:30 | 仏語

出典: フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」!

神智学(しんちがく、英: theosophy)とは、神秘的直観や思弁、幻視、瞑想、啓示などを通じて、神とむすびついた神聖な知識の獲得や高度な認識に達しようとするものである。神知学、神知論、接神論とも。

神智学は、名前のとおり「智」と「認識」を重視するものであり、神あるいは超越者が叡智的性格をもち、宇宙や自然もこのような叡智からつくられ、人間の智も神の智に通ずる性格をもっており、人間は霊的認識により神を知ること、神に近づくことができるとされる。

グノーシス派、新プラトン主義、インドの神秘思想などにも神智学的傾向がみられるが、狭義には以下の二つのものを指す。一つは、17世紀にヨーロッパで顕在化した近代の「キリスト教神智学」の潮流であり、もう一つは1875年に設立されたインドに本部のある「神智学協会」の思想である。

後者は近現代に新たに創出された体系であり、両者には共通点もあるが、系譜上の繫がりはない。通常、神智学と言えばニューエイジ(現在のスピリチュアル)、大衆的オカルティズムの源流である神智学協会に関するものを指すことが多い。本記事では、神智学協会系の思想を区別する場合は〈神智学〉と表記する。

 

神智学は、聖典や啓示の解釈を通じて神や世界の秘密を探ろうとする知的・精神的営為、存在と自然の神秘に関する秘教哲学の体系、あるいはその神秘についての直接的な知を得ることを目指す探求を指す。本来的な意味での神智学は特に「神の本性」を知ることに重きを置くものを指しており、これに対して、「世界や自然」の秘密を知ろうとする傾向の神智学思想は汎智学(独: Pansophie パンゾフィー)とも呼ばれる。神智学は秘教の広範な領域の一部であり、個の照明と救済をもたらす隠された知識や智慧に関連すると考えられている。神智家は宇宙の神秘を、そして宇宙と人間と神との結びつきを理解しようとする。神智学が目指すのは「神と人間と世界の起源」を探ることであり、それらを吟味することによって、神智家は宇宙の目的と起源についての首尾一貫した説明を見出そうとする。広義には新プラトン主義、グノーシス派、カバラ、ヨアキム主義も神智学に含まれる。宗教改革以後では、新プラトン主義の系譜をひく自然神秘主義的な思想を展開し、医療錬金術を探求したパラケルスス、神秘体験から独自の神学を唱えたヤーコプ・ベーメらの著作も神智学の系列に属する。とりわけ17世紀初頭のヤーコプ・ベーメの諸著作は以後のキリスト教神智学の大きな水源となり、神智学が隆盛した18世紀から19世紀初めには、エマヌエル・スヴェーデンボリ、マルティネス・ド・パスカリ(フランス語版)など多くの神智学的思想家が登場した。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」より、抜粋引用。

 

神智学は⦅神智学は、名前のとおり「智」と「認識」を重視するものであり、神あるいは超越者が叡智的性格をもち、宇宙や自然もこのような叡智からつくられ、人間の智も神の智に通ずる性格をもっており、人間は霊的認識により神を知ること、神に近づくことができるとされる⦆。

こうした考え、教えを「神智学」と言いますが、きっと初めて聞いた、知ったという人は多いと思います。

現に、お寺の僧侶も学んだと人と学んでいない人と様々おられます。

現在のように「目に見えない脅威に晒され、多くの方々が亡くなっています」。

今こそ「精神的豊かさを求め、神の存在を信じる」ことが大切なことだと思います。

他にも、私は「死生学」を推進しています。生きている間にこうした「仏学」を学んでおくことは「来世に辿り着ける」!来世で幸せになることに繋がるものです。一種の「悟り」なのだと思います。

来世で苦しみ続けることが「地獄」であり、来世で幸せにいられるこそが「天国」なのです。それも永遠の幸せにと繋がるものです。

センスプロデュース研究所、葛西行彦

 

 


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阿弥陀如来の真言!

2018-06-14 00:00:30 | 仏語
※願いが叶う真言!
真言、といえば密教が頭に思い浮かぶと思います。
密教と聞くと、何となく秘密めいた感じがするとか? 超科学、超能力といったオカルト的なものに結び付けて、呪術的、迷信的なものと結論づけて、否定的な態度を取る人々など、殆ど内容も理解しないまま、何らかの現世利益があるのではないかと苦しい時の神頼み的な感じを抱いている人々に分かれているようです。
確かに、密教寺院の多くは、加持祈祷を通じて、様々なご利益を主張し、そのためにこそ多くの信者を集めていることも事実です。
また、現世利益が教義の一部に含まれていることも事実ですが、そのためには必要な厳しい実践があるということを見逃してはなりません。
密教とは、秘密仏教の省略形ですので、そう簡単に内容が理解できるとは思えません。分かりやすく言うと、簡単に理解できたと錯覚したり、誤解したりすることがないよう、態々秘密にしてあるのです。理屈ではなく実践を通じて身につくものである以上、その奥義は直接マンツ-マンで伝承された歴史があると言えるのではないでしょうか?密教の基本を三密の行と言います。
三密とは、音と体と意識を一体化する密教独特の行であり、身(=しん=手⇒印を結ぶ)口(=く=口⇒真言を唱える)意(=い=精神⇒仏との一体化を念ずる)といいます。つまり、真言は三密行の一部を言うことになります。

真言は、古代インドで発祥した仏教の経典を、サンスクリット文字で呪文のようにそのまま唱えるものですが、日本では中国を経由して布教されたため漢文で書かれていますが、密教ではサンスクリット語で唱えます。元々の意味よりもそれを発音すること自体に意味があったからです。
私たちは密教僧ではありませんので、日常的に三密行を実践するには限界があります。
しかし、生活の中に少しだけでも真言を唱える習慣をつけることによって、苦難を跳ね除けたり、願望を一歩近づけ、より豊かな人生を実現することが可能です。長い人生においては、いつも平坦な道を歩くことばかりではありません。時には、人智を超えた仏の加護を授かって、切り開かなければならない場面に遭遇します。密教は、曼荼羅に描かれているように、大日如来をご本尊としてたくさんの菩薩、如来、明王などの仏で宇宙を顕しているとも言われています。
それぞれの仏には、人生のあらゆる場面でその役割、特徴があります。

サンスクリット語を日本流に発音しているものですので、意味は分かりません。意味よりも、真言が発する波動に意味があります。
例えば、ここでご紹介する不動明王の真言は、第一、第二チャクラを活性化する効果がありますが、音を発することによって得られる効果の一つです。繰り返す習慣を身につければ、いつしか暗記してしまいます。あまり形に捉われず、仕事の帰り道、寝る前、目覚めるとき等々、何時でも何処でも唱える習慣をつけましょう。周囲に人がいて大きな声を発しにくい時はつぶやくように小声で唱えても構いません。
真言は、声に出して無心に唱えると波動が霊力を持ち、運命を好転させる力となって、直面した難関を突破したり、願いを実現させる効果が現れます。課題解決に力を貸してくれるそれぞれの仏の特性を理解し、活用してみては如何でしょうか?

※愛を成就する…愛染明王の真言!
恋愛の問題は様々です。
失恋、不倫、浮気、恋人とのトラブル、意中の人に気持ちが伝わらない…等によって失意のどん底に突き落とされたり、離婚や婚約解消、最悪の場合は自殺、殺人にまで発展するほど恋愛に対する執着には深いものがあります。
また、スト-カ行為も失恋の延長上で起きる不幸な現象と言えるでしょう。
愛染明王の仏像を見ると、表情は怒りに歪み、六本の手を持つ全身は強い愛を象徴する赤で塗り染められています。二本の手には弓と矢を持っています。
この矢はキュ-ピットのように相手の心を虜にするものではありません。
恋愛が成就しても嫉妬や独占欲などにより壊れてしまうこともあるのが人間です。このような欲を戒める矢を表し、人間のもっと高い愛を要求しているものです。
愛には、家族愛、兄弟愛、友人愛や広い意味では人間愛もあります。あらゆる愛の問題や願いを叶えたい時には、この真言を唱えることです。本来、恋愛の願いは、人間の『欲』でもありますので、一般的に仏教では我欲は受け入れないとされていますが、密教においては広い概念で受け入れているのも特徴の一つです。

※現世の極楽浄土で生きる…阿弥陀如来の真言!
阿弥陀如来といえば、『南無阿弥陀仏』がすぐに浮かんでくるほどポヒュラ-な仏です。
密教では、千の仏があっても上下の差がなく、その一方で全て同一だと説きます。あらゆる仏は大日如来が姿を変えたものとされます。中でも、真理全体に最も近いと言われる仏は大日如来を囲む4如来で、(大日如来を含むと5如来)その中でも直接信仰の対象になったのは阿弥陀如来だけです。
ここ一番、窮地に立たされた時、私たちは無意識のうちに『南無阿弥陀仏』と唱えた経験をお持ちの方も多いのではないでしょうか。同時に、唱えた結果、窮地から脱出した経験をお持ちの方も多いのではないでしょうか。この真言よりも『南無阿弥陀仏』と唱えた方が自然に唱えられるという方は、それでも同じ力を発揮されます。
阿弥陀如来は極楽浄土を作ったとされています。庶民から信仰を集めた阿弥陀如来の真言を唱えることにより、いつも平穏な心で現世でも極楽浄土に生きる豊かな人生を送れるとされています。荒木行彦


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神社とお寺の違い⁉︎

2016-11-08 00:00:30 | 仏語
お寺と神社の違いとして「お墓のある所がお寺で、鳥居のあるのが神社」という考え方が浸透しています。もう少し難しくお寺と神社の区別方法を説明しますと「仏尊像を安置し、仏教の教えを説く僧侶の住むところがお寺で、日本の神様の御魂を祀るところが神社」といえます。この区別方法だとどちらも宗教ですから、まだ違いが分からない方が殆どだと思います。では、「日本人の霊魂観」から考えたお寺と神社の違いについてご説明したいと思います。
*神社とは、神社は日本人が神をお祀(まつ)りし、お詣りするための施設、従って神の座(いま)し所であり、神と人のための祭りをする場所でもある。仏教の場合も本来は無神論で礼拝対象など持つ必要はないのだが、大乗仏教になって出家の修行道場であった精舎(しょうじゃ)に入魂された仏像が祀られ、祈願の行われる特別の場所となった。日本人が神社と教会や寺院とを区別出来なくなったのには、複雑な歴史があったのである。

*お寺とはお寺は中国・インドといった外国から伝わった仏教です。
お寺は、仏様を祀り、仏像をすえ、僧が仏法をおさめる為に存在しています。お寺には、僧侶・尼さん・住職などがいて、御本尊として仏様が安置されています。
大日如来、薬師如来、釈迦如来、聖観世音菩薩、文殊菩薩、地蔵菩薩、不動明王などの像が仏様です。皆さんも一度は見たことはありますよね?お寺は、院・庵・坊・大師・寺院などの数々の呼び名がありますが、どれも意味は同じです。また、神社では参拝時に御神体を拝み見ることが出来ませんが、寺院では御本尊を拝み見てお祈りを捧げることが出来ます。御本尊は、金堂に安置されており、お祈りを捧げる礼堂と同じ建物内に一体化して存在している為、神社よりもお寺の方が、御本尊(お寺の場合は仏様)をより近く感じることができると思います。
神社で参拝する場合は、心のマナーや参拝のマナーが細かくあります。例えば、有名な神社をマスコミなどが取り上げてパワースポットなどと紹介されると大勢の観光客が訪れます。こんな言葉を御存じですか?「神は人の敬(うやまい)によりて威を増し 人は神の徳によりて運を添う」この言葉の意味は、神様に「ありがとうございます」と感謝をし、神様を尊敬する人が多いと、私たちは神様の徳によってご加護を得られるということです。どんなに神社を参拝しても、神様を尊敬する態度のない人や、ただお願い事だけを伝えても、ご加護は期待できないということにもなります。
神社に参拝する多くの人は、願いを叶えてもらうために祈りますが、本来は、神様の御魂を祀る場所なので、願い事などで長居をするというのではないのです。神様の御魂を癒し、感謝を述べるところが神社なのです。ですから、神社では狐の取り憑きや除霊などは一切出来ません。願いごとや取り憑きのお祓いはお寺となるのです。大きなお寺には、様々な神様が祀られており、愛に纏わる願いごとは、愛染明王とか、家内安全などの御守りごとは不動明王などTPOに合わせて願いごとをすることが出来ます。

成田山新勝寺のような有名で大きなお寺には、平和の祈りや出世に纏わる神様まで祀られています。私もよく成田山新勝寺に参拝しますが、本堂にご挨拶してから、愛の神様、愛染明王や不動明王などに参拝し、平和堂では、戦争の無い世界平和を毎回、祈ります。昨年の夏に私のツインソウル相手が体調を崩したと知り、成田山新勝寺の近くの石屋さんに行って、パワーストーンのブレスレットを購入し、その足で成田山新勝寺にある、愛染明王にツインソウル相手の健康祈願を致しましたら、ブレスレットを受け取り、温かな波動を感じて、不思議と癒されて体調が良くなったと知り合いの方から言われて驚きました。こうして、感謝しながら、正しく理解して神様にお願いしたならば、ちゃんと願いごとをきいてくれます。
これらが御利益なのです。当たり前のように、神様なんか信じないけど、とりあえず手を合わせてみるなどの気持ちでは、願いは神様に届きません。それはいくら神様でもいく千人もの願いごとを毎日のようにお願いされては、一人、一人にお応え出来ないと思われます。本当に困り果てて、藁を縋る思いで願い、祈願している人を先に助けなければならないのです。また、私は成田山新勝寺と深い関わり合いもあります。第十八代総僧侶、荒木照定氏とは遠い親戚にあたり、成田山新勝寺には銅像もあります。参拝した時には必ず挨拶に行きます。そして、私の守護霊こそが、成田山新勝寺で7年間修行された、白い髭を生やした武士が私の着ていたベストに白くぼんやりと写りました。また、御守りすべき方があなた様ですと、全力で御守りするから、与えられた天命を全うして欲しいとメッセージされて驚きました。こうして、リアルに神様の存在や人の魂の存在を理解し、実体験しているから、私から神様の存在を紹介しているものです。
五感プロデュース研究所、荒木行彦、


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お盆に思いをはせる!

2016-08-13 00:00:30 | 仏語
お盆(おぼん)とは、夏に行われる日本の祖先の霊を祀る一連の行事。日本古来の祖霊信仰と仏教が融合した行事である。
かつては太陰暦の7月15日を中心とした期間に行われた。現在では太陽暦の8月15日を中心とした期間に行われることが多い。
お盆の由来!
仏教用語の「盂蘭盆会」の省略形として「盆」(一般に「お盆」)と呼ばれる。盆とは文字どおり、本来は霊に対する供物を置く容器を意味するため、供物を供え祀られる精霊の呼称となり、盂蘭盆と混同されて習合したともいう説もある。現在でも精霊をボンサマと呼ぶ地域がある。
中華文化では道教を中心として旧暦の七月を「鬼月」とする慣習がある。旧暦の七月朔日に地獄の蓋が開き、七月十五日の中元節には地獄の蓋が閉じるという考え方は道教の影響を受けていると考えられる。台湾や香港、華南を中心に現在でも中元節は先祖崇拝の行事として盛大に祝われている。
盆の明確な起源は分かっていないが、1年に2度、初春と初秋の満月の日に祖先の霊が子孫のもとを訪れて交流する行事があった(1年が前半年と後半年の2年になっていた名残との説がある)が、初春のものが祖霊の年神として神格を強調されて正月の祭となり、初秋のものが盂蘭盆と習合して、仏教の行事として行なわれるようになったといわれている。日本では8世紀ごろには、夏に祖先供養を行うという風習が確立されたと考えられている。地方や、佛教の宗派により行事の形態は異なる。
また、お盆時期の地蔵菩薩の法会は「地蔵盆」と呼ばれ、(天道)大日如来のお盆は大日盆といわれる。
お盆は成句(イディオム)して使われることもある。「盆暮れ(ぼんくれ)」などと時季を指す言葉としての使用や、「盆と正月が一緒に来たよう」という"とても忙しいこと"または"喜ばしいことが重なること"のたとえ(慣用句)としての使用がそれである。
我が家ではお盆という7月13日がお盆の入りで迎え火や送り火を焚きます。
地方ではお盆というと旧盆の8月13日がお盆の入りとなり、企業の多くが夏休みとして8月13日前後に多いものです。
お盆といえば「お墓参り」や盆踊りなどがあります。
東北地方では、旧盆の8月13日を過ぎると海水浴場では遊泳禁止になるところが増えてきます。暑さ寒さも彼岸までと言えるのは、東北地方では夏は旧盆を過ぎると朝晩が涼しくなります。海では「土用波」と言われて、海が荒れたり、海水が冷たくなるので遊泳が出来なくなることがあります


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因果応報の意味⁉

2016-04-18 00:00:30 | 仏語
人はよい行いをすればよい報いがあり、悪い行いをすれば悪い報いがあるということ。もと仏教語、行為の善悪に応じて、その報いがあること。現在では悪いほうに用いられることが多い。「因」は因縁の意で、原因のこと。「果」は果報の意で、原因によって生じた結果や報いのことを意味します。
因果応報!
よい行いをすればよい報いがあり悪い行い をすれば悪い報いがあるのですから感謝の気持ちを忘れずに、人に良いことをしましょう。それは巡り巡って必ず自分に帰ってきます。
怖いことを言えば、儀を通さぬ者の周りには、不思議と同じような人が集まってきます。つまり人を裏切る人は、いつか必ず裏切られる、、、。
因果応報、これは変えられぬ自然の摂理。ですからまずは、人の儀は大切にしましょう。

この因果応報の意味を理解していない、分からない人が日本には多いと思います。また、意味が分かったらエゴや邪心から良い行いをすれば見返りがあると期待する人もおられます。
このような人も因果応報の真意を知らない人です。
例えば「類は類を呼ぶ」と言う諺があり、困った人を助けたら、自身が困った時に助けられるのです。これが因果応報の実体験です。
他に悩み、苦しんでいる人を助けて上げたら感謝だけでなく、その人が助けてくれた人だけに感謝するのでなく、他の悩み、苦しんでいる方を助ける、これらがいずれ、因果応報として跳ね返って来ます。
逆に悪事を働き、人を騙し続けている人は、そのような仲間を集めたり、知り合います。

そして、犯罪を犯して逮捕されてから後悔したり、全てを失くしてから初めて因果応報の意味を知ることになっても遅いのです。
以前から私は日本に今現在必要な教えは「心の豊かさ」『精神的豊かさ』を求める!ことだと提唱しております。
お金が無いからと貧乏だと嘆き、仕事もしないで楽してお金が欲しいから人を騙し、詐欺行為してまでもお金を稼ぎたい若者やコンビニなどで強盗する若者など、因果応報の意味を理解出来たなら、犯罪を犯さないで済むはずです。
モノ、お金に恵まれたら幸せだと思考する人が実に日本人は多いことに驚きます。心が乏しいから、お金さえあれば何でも買える!愛だって買えると勘違いします。
また、平然と金儲けして何が悪いかと開き直ったりする人に限り、法律を破り、マナー違反しても稼ぎたいのです。
まさしく、このようなことを繰り返していたら、因果応報から罰当たりな厄が身に降りかかります。
最近は、スピリャルビジネスなどと言って、人の不安につけ込み、脅したり、不安をあおって信じ込ませ、悪者が着いているから除霊しないと危ないと告げる、除霊には5万円から10万円かかると告げる、これらは偽者霊媒師で、因果応報を全く知らないから、逆に悪者、悪霊に取り憑かれていることに気付かず、自分は◯◯女神だと自身で名乗ったり、神様のお遣いの者だと名乗ったりします。なりきり詐欺師に近い騙しをする人も多発しております。まさしく、罰当たりな人たちです。人を騙せても、神様や天使たちは騙せません。しっかりと見張っております。これが仏語の因果応報の意味です。
私は既に体験し、女神や大天使たちから愛され、守られているのが善意を尽くして来たからでもあります。
五感プロデュース研究所、荒木行彦、

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