19世紀の婦人たちを虜にした「ピアノの魔術師」!
フランツ・リスト、10世紀のパリ社交界において、ショパンと人気を二分したとも言われる「フランツ・リスト(1811~1886年)」。多くの人に今なお愛されているショパンに比べ、日本でのリストの認知度はやや低いですよね。しかし、その美しい横顔と超人的なピアノのテクニックは同時の上流階級夫人たちを失神させたほど、知られている音楽的才能と女性を虜にするカリスマ性を秘めて19世紀の「スーパースター・リスト」は、どんな音楽だったのでしょうか!?
9歳でピアニストとして成功「ピアノの魔術師」となるまで!
父の手ほどきで幼少期からピアノの才能を発揮したリストは、10歳になる前にハンガリーで数々の演奏会を開催した。その後、留学したウィーンで開いたコンサートでは晩年のベートーヴェンに称賛され、12歳でパリ社交界にデビューを果たすなど、ヨーロッパ各地で活躍しました。
そんな彼が20歳で感銘を受けたのが「超絶技巧」で名を馳せたバイオリニスト「バガーニー」の演奏でした。複数の弦を纏めて弾いたり、指で弦を弾いて音を出したり、テニックの素晴らしさもさることながら、観る人を圧倒するパフォーマンスにすっかり心酔し、ピアノ界バガーニーを目指そうと決意する。ピアノによる「超絶技巧」をちりばめた。「バガーニーによる超絶技巧練習曲」を作曲し、それを見事に弾きこなすことで「ピアノの魔術師」とまで呼ばれるようになりました。
当時のリスト人気を示す逸話の数々!ナルシス(ギリシア神話ナルキッソス)のような端正な顔立ちに、強い弾きを宿し瞳。美しくも難解な曲を長い指でアグレシッシブに演奏し、時には演奏中にピアノを壊してしまうこともあったとか!!
その情熱的な姿にヨーロッパ中の婦人たちが魅了されました。当時のリストの人気を語る逸話は数多くあります。
風呂の残り湯を盗まれたり、飲み残した紅茶をファンが香水瓶に入れて持ち歩いたり・・・
旅立つ彼を見送るために楽団付の大型汽船をチャーターし「追っかけ」に興じる婦人たちも居たほどです。
20代前半で伯爵夫人と逃避行、喧噪から離れ束の間の静寂を手にしたリストは作曲活動にも打ち込みます。
音楽の転機となったのは36歳の時。「演奏旅行に疲れた」リストは、ワイマール宮廷楽団の楽長に落ち着きオーケストラを率い、指揮者としても活躍しました。
忘れてはならない、リストの音楽的功績!
ワイマール宮廷楽長時代、安定的な地位を得ていたリストは経済的に困窮していた作曲家の優れた曲を見出し、世に紹介したことでも知られています。晩年はローマ教皇とも親交を深め宗教音楽に傾倒し、音楽教育にも貢献しました。
美貌と超越したピアノテクニックで一世風靡したリスト。波乱に満ちた74年の生涯でリストが音楽界に遺した功績は大きく、現代のピアノリサイタル(ピアニストによる独奏会)の形式を創り、交響詩の名付け親でもあります。また、故郷ハンガリーのブタペスト音楽院を設立し、その後に続く20世紀の音楽家たちに多大な影響を与えています。
音楽の宝石箱から抜粋引用、紹介。
私がフランツ・リストのファンになったきっかけがあります。学生時代の音楽の授業では、ショパンやベートヴィン、バッハなどの作曲家を取り上げて曲などを紹介して呉れましたが、リストに関しては、当時印象が薄くて記憶に残っていないほどでした。
ところが、プロのピアニストと知り合いになり、目の前で聴いた「弾いて呉れた曲」がフランツ・リストの「愛の夢、三番」でした。
ピアノ演奏を目の前で聴いた私には「衝撃が走りました」。それは「五臓六腑に響き渡る」音色でした。
癒やされただけではなく、演奏者の感情や想いまでも伝わり感動したことを憶えています。
愛の籠った最高傑作の曲だと私は思っています。好きです。
19世紀当時「スーパースター」だったリストの曲「生音を聴いて納得」したものです。
当時のピアノ演奏家は、観客に後ろを向き、ピアノ蓋を閉めて演奏するスタイルが主流でしたが、リストは「パンガーニー」の影響を受けて「魅せる(リサイタル流)」を作り出したのです。
リストは、ピアノ演奏中に観客に横向きになり、ピアノ蓋を開けて、遠くまで聴こえるようにしました。そして、現代のアイドルのように女性から歓声を受けたものです。
現在の「ピアノリサイタルの生みの親」でもあるのです。そんなピアノの先駆者のリストが好きです。
フランツ・リストのお墓は「ドイツ・バイロイト」に眠っています。機会があれば近年中にヨーロッパ旅行に行った時に立ち寄りたいものです。
センスプロデュース研究所、葛西行彦