死生学(しせいがく、英: thanatology)は、ギリシャ語のタナトス( θάνατος)と学ないしは科学と結びつけた用語で、死についての科学と定義することができる。死と死生観についての学問的研究のことである。
定義と特徴!
死生学が対象とするのは、人間の消滅、死である。死生学の開拓者の一人、アリエスによれば、「人間は死者を埋葬する唯一の動物」である。この埋葬儀礼はネアンデルタール人にまでさかのぼるもので、それ以来長い歴史の流れの中で、人類は「死に対する態度=死生観」を養ってきた。死生学はこのような死生観を哲学・医学・心理学・民俗学・文化人類学・宗教・芸術などの研究を通して、人間知性に関するあらゆる側面から解き明かし、「死への準備教育」を目的とする極めて学際的な学問である。死生学は尊厳死問題や医療告知、緩和医療などを背景に、1970年代に確立された新しい学問分野である。
死者と生者!
死者と生者が夜を共にする通夜!
死は死んだ者だけに悲惨をもたらすのではない。死者に先立たれ、取り残された生者には孤独が残される。生者が身近な者の死の精算に失敗すると大きな後悔が残され、大変な苦痛にさいなまれることになる。死生学は死を個人一人の問題としてではなく、個人と個人の関係性において共有される重大な問題として捉える。たとえば自殺者は自らの悲嘆に囚われるあまり、自殺した後に残される遺族の心の負担を省みることに乏しい傾向にある。死生学は自殺願望をもつ者の孤独感や絶望感、身近に自殺者が出てしまった人のショックや悲しみに対するケアの方法を研究すると共に、それを踏まえて死生観教育を確立し、自殺予防に繋げていくことを提唱している。
また親しい人物が死者となった場合、親密な交友関係や結婚以前の恋愛関係など法的裏付けに乏しい関係は断ち切られる傾向にあり、それが血縁者でない広義の遺族の心の負担につながることが多い。葬式での喪主などは法的関係に基づいて行われるのが一般的なので、場合によっては、法的裏付けのない遺族は死者に対する悲しみを十分に満たされることがない。したがって生きているうちに大切な友人や恋人との関係をある程度公的に認知させておくことは有意義であると死生学は提唱している。
我々はとかく死の予測不可能性をもって死の非日常性のよりどころとし、それが誰にとっても必然として訪れるということを忘却しがちである。死は自分に訪れるだけでなく身近な人にも当たり前に訪れるもので、しかも身近な人の死は深刻な苦悩を個人にもたらす。死生学は死の必然性に立脚し、このような必然的事実としての死を乗り越えるための学問である。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より、抜粋引用。
私が提唱する「死生学の推進」は、人は何れ必ず死にます。それも個人によって短命か長命かは誰にも分かりません。
ですから、生きている間に「死ぬことを学んでおくという考え方」です。
それは、死後の世界が存在することを前提に、死後の世界で「幸せに暮らす」ことを指導するという考え方です。
以前に、地元のお寺で「死生学の講義」をしたことがあります。それは、人の生き方や死に方に繋がるものです。
例えば、悩み、苦しみ、そして自ら命を絶つ(自殺)すると、よく言われているのが、その場に執着してしまい、未練が強く残ってしまうので「成仏出来ない魂(思念)となり(地縛霊)」になるものです。良く、アパートなどの部屋で自殺した人が居たら、そこは「事故物件」と言われて、借り手が怖がって、家賃が安くても借りたくない物件です。
何故?私が死生学を推進するのかは、私自身が臨死の方を「来世に見送った」ことに関係しています。
13年前の転落死の同時刻にその方の魂と出逢い、繋がったことにより、人の死魂の存在、来世の存在などをリアルに教えて貰ったことがきっかけです。
十数年の年月をかけて、死生を学び、悟ったことにあります。
その後も、私のところに「彷徨う霊魂」が訪ねて来ます。それは、死後の世界のことを知らない、寒くて、暗い空間を彷徨うのがとても辛いからです。
ですから、悟らせて、成仏して貰い、来世へと導き、そして「来世で幸せ」になって貰うことです。
そのことを「生きている間に学び、理解して貰い」亡くなられた時に、迷うことなく来世に辿り着き、来世では「厳しい業(カルマ)」がありますが、このカルマを享けて、天からの「御心」を享けられます。そのことで来世で幸せになれるという教えです。
センスプロデュース研究所、葛西行彦