中島敦(森田誠吾著 評伝)

2019-10-28 00:00:06 | 書評
中島敦にはまりこんでいる。といっても、すでに正規に作品として発表されているものはほとんど読んでみた。現在は中島敦全集の別冊の中島敦作品の評論等を読んでいる。

そのような、作家の周辺を書く方式としては、「評論」、「伝記」、「評伝」という種類がある。森田誠吾著の『中島敦』は、評論ではない。評伝となっているが、限りなく伝記に近い。皮肉なことに中島敦の代表作は『李陵』との評が多いが、その作品では「述べて、作らず」という手法が追及されている。それでは小説でなく史書になってしまうのだが、そこが技の使い方というか、今回のテーマから離れるのでこれ以上は触れない。



この本が出版されたのは文庫本の奥付で1995年1月となっている。最初から文庫本だったのか単行本があったのか定かではないが、筑摩書房が昭和23年に社運をかけて全集を発行しようとしたいわゆる第一次中島敦全集を元にしていると思われる。この全集は売れ行き好調と誤認した出版社が、増刷してしまった分がそのまま売れ残り、出版業界に「ベストセラーを出した出版社はつぶれる」という教訓をもたらしたほど筑摩の経営を傾けた。

その後、筑摩書房は太宰治や宮沢賢治の全集で盛り返したものの、昭和51年(1976年)第二次中島敦全集が完成したが、2年後に会社更生法に至ってしまう。そして、2002年に第三次中島敦全集が出版されていて、多くの新しい情報が詰め込まれている。ということで、森田誠吾著は、第二次全集の段階で書かれていて、かならずしも彼の人生の中の行動や深層心理までに筆はいたっていないのかもしれないが、何種類かの伝記を読むことはそれなりに重要だ。

目次から引くと、1.出自、2.東京、3.伴侶、4.横浜、5.宿痾、6.南洋、7.傷心、8.家路。ということになって、出生から時を順に追っている。

4の横浜というのは、敦の勤務先のことで、横浜高等女学校という私立学校の先生になったわけだ。現在の元町の近くにあった学校で、今は磯子にあって横浜学園高校と共学校に変わっている。この学校の話を書くと、まったく終わらなくなるので稿を改めて書くしかない。

5の宿痾というのは、彼の精神状態のことなのだが、それとは別に33歳で早世した原因が宿痾喘息。こどもの頃は頭脳だけではなく運動も一流。まったくの健康であった彼が慢性的な喘息になった理由は明らかになっていないのだが、森田氏は、こども頃から家庭内の愛情に飢えていた敦少年が四六時中、飼い猫を抱いていたことによるアレルギーが原因ではないかとの説を書いている。

6の南洋だが、一つには芥川賞候補になった「光と風と夢」は英国の作家で「宝島」や「ジギルとハイド氏」を書いたスティーブンソンが、肺病を軽減するために南太平洋のサモア島で暮らす日常を書いたものだが、英国人を鬼畜と表現した時代に芥川賞を受賞できるはずもなかった。そして、敦は、喘息の苦しみから逃れるために当時日本の統治領だったパラオに働きに出るのだが、パラオはサモアと異なって、それほど暖かくはなかったのだ。私は「光と風と夢」は、パラオにいった経験を生かして書いたのだろうと常識的に考えていたのだが、実際は逆なのだ。南洋の小説を書いたら、そこに行きたくなり、行ってみたらそれほど暑くなかった、ということ。

実は、1992年に「中島敦 没後50年展」が神奈川近代文学館で開催されているが、ちょうど今、同じ場所で生誕110年展が開かれているのである。会期はあと1ヶ月を切っている。あと何冊か読んでから万全な態勢で展覧会を制覇したいな、と思っている。