湯島天神の富籤(とみくじ)

2019-10-14 00:00:53 | 歴史
富籤の話であって、おみくじの話ではない。実は、畠中恵さんのベストセラー『しゃばけ』シリーズ第二巻『ぬしさまへ』に含まれる短編『栄吉の菓子』の中に、湯島天満宮の富くじに当って100両を手にして隠居生活を始めた老人の話が書かれていた。江戸で家が買えるというのだから現在価値で3000万円位かな。実は金を手にして幸福になるのではなく自殺するのだから物騒なのだが、江戸庶民の幸福論を語ろうというのではない。

小説の中では、100両当っても、湯島天神に10両を払い、さらに新規に10両分の富くじを買うことになっていたそうで、手取りは80両。2割天引きされる。それでも競馬よりマシなのだが。

しかし、湯島天神は幕府公認の学問の神様(菅原道真公)を祀っている。いかにもギャンブルとは離れているように見えるのだが、江戸の富くじ状況を考えてみた。


まず、幕府は、富くじ=ギャンブルという認識を持っていた。そのため、五代将軍綱吉は、1692年に富くじを含めた賭け事を禁止した。犬殺しを死罪にしたのが1680年代のことだそうで、まったく嫌な時代だった。

ところが、幕府の財政が悪化してくると、その対策の一環で富くじを認めようということになり、まず谷中にある感応寺で富くじを始めた。その収益をもって寺社の修理費を自分で払わせて、幕府の補助金を減らそうということ。

ところが、公認の富くじは二分(約30,000円)ということで、一つには、富くじ購入友の会のようなグループ買いする人が多かった。また、正規のくじではなく一枚一文という格安な『陰富』も出回っていたそうだ。さらに怪しからんのは、神社だけではなく御三家の一つ水戸藩まで陰富の勧進元になっていたそうだ。さらに、寛政の改革を経た後、感応寺ばかりではなく、目黒の龍泉寺と湯島の湯島天神での富くじを公認。この三つの寺社を三富というそうだ。

その後、さらに取り扱い寺社は増えていったのだが、天保の改革で1842年に富くじは禁止される。明治40年の刑法でも禁止されている。一方で1948年の宝くじ販売で、「富くじは禁止だが宝くじは解禁」ということになっている。

さらに歴史の一瞬だが、戦費調達のため、1945年7月に政府は「勝札」を売り出している。1ヶ月後には原爆投下やソ連の参戦で戦争は終わる。まだ戦費調達をしようとしたのは戦争続行の意思があったということだろう。「勝札」について、少し調べてみようかなと思うが、調べる方法も思いつかない。