小津史料館には驚くことが

2019-10-27 00:00:22 | 美術館・博物館・工芸品
東京日本橋の昭和通り沿いにある『小津和紙』の3階に『小津史料館』がある。あまり有名ではない小さな博物館なので、今まで訪れなかったが、そういうところにもささやかな驚きがあるものだ。

まず、一階の小津和紙の店舗だが、いったい今の東京に何が起きているのだろうか。

店舗には人があふれているわけだ。それも、ほとんどが外国人旅行者だ。さすがにアジア系の方は少なく欧米系ということだ。和紙が珍しいのだろう。さまざまな和紙がさまざまなサイズで次々に売られている。問屋のようだ(実は問屋でもあるのだが)。外国語が飛び交っている。少なくても三か国語は聞こえている。ほんと、御茶ノ水の折り紙ショップもこんな感じだった。



そして、エレベーターで3階に上がるとそこはもう静寂の中に史料室がある。

実は、『小津和紙』とか創業366年というので、江戸時代からの和紙の問屋かと思っていたのだが、和紙の展示品や製造過程を見ている時には気が付かなかったのだが、歴史的資料を見ているうちに、「おやっ」ということになる。江戸時代には別の商売をしていたようだ。江戸の富豪番付でいうと、だいたい5位から10位の間にあったようだ。とても紙など売っていたわけではない。金融業を主としていたようだ。悪く言えば紀州のドンファンみたいだ。

展示資料の中には、大名などが、藩の金策に窮して小津商店から金子を借りて、その見返りの借入証が並んでいる。本当に千両箱十箱クラスの金だ。借入の証文は返却されれば借主に返すはずだから、史料として残っているということは、返さずじまいになったということだろう。もう、大名家の名折れだ。ご子孫がいれば早く返した方がいいだろうが。金利はとても払えないだろう。



そして、小津家に関係の深い人として、1.本居宣長、2.小津安二郎のことが触れられていた。

まず、本居宣長。医者の傍ら、日本の古典文学を読破し、「古事記」の研究、「源氏物語」を講義したり、平安文学に見られる「もののあはれ論」を展開した。江戸幕府からは一歩距離をおいていた。経歴には伊勢松坂の木綿商の家に生まれたとなっている。Wikipediaには「伊勢松坂の豪商・小津家の出身」と書かれているが、誤解を招く表現だ。当時は豪商でもなんでもなかった。

さらに、小津家から出て本居を名乗ったかのような話だが、実は逆。つまり捻じれているわけだ。

まず、本居家は伊勢にあり南朝方北畠家に勤める重臣だった。しかし戦国時代末期になり信長は北畠家をつぶすために蒲生氏郷に北畠を攻めるように指示。この段階で、本居家の当主だった本居武秀は北畠から蒲生へ寝返ったわけだ。蒲生家はその後、秀吉の天下統一に力を貸す大名になったのだから。基本戦略は正しかったのだが、個別問題は別だ。資料では、北畠×蒲生の戦いの中で討ち死にしてしまう。そして残された身重の妻は伊勢の小津村に退き、男子を生むわけだ。そして新たに村の名前である「小津」を名乗ったことになっている。

実は、主人が亡くなっても戦いに勝ったわけだから、妻がこそこそ逃げるというのは不思議な話だ。邪推かもしれないが、この蒲生氏郷という男、短気という欠点があり、気に入らない部下は、成敗してしまうことが多かった。もしかしたら本居武秀もそういう形で犬死したとも考えることは許されるかもしれない。そうなると妻も逃げ出した方がいいということになる。

ともかく、この不幸の中に生まれた七右衛門が伊勢で木綿商を始め、その子、三郎右衛門道休の代に江戸にも店を出した。1698年のことだ。江戸の店は、その後、1755年に為替取引を始める。これが豪商への第一歩だった。一方、伊勢では5代目のこどもたちの中に宣長がいて、こどもの頃は店の手伝いをしていたのだが、母親が木綿商の先行きに不安を感じ、宣長少年に医師の勉強を始めさせた。そして、成人したのち、何を考えたのかは不明だが、戦国時代に失われた「本居姓」を復活させたわけだ。もちろん本家は小津のままである。


そして、小津安二郎だが、黒澤明と並び、映画監督として海外でも有名だ。原節子を含む「小津組」として映画史に大きな存在を残した。実は、小津家とは血縁はないようだ。関係がないということではなく、小津家は事業が拡大するにつけ、事業ごとに分家をしていくのだが、番頭クラスに小津の姓を与えていた。ちなみに安二郎の父は海産物問屋だ。(原節子の名前は中島敦の研究の中にも出てくる)

そして小津家が紙問屋を始めたのは1880年。東京洋紙会社を買い取り、小津洋紙店を始めたときからだそうだ。

ところで、現代の小津産業だが、紙の仲間に入れるのかどうか、電子工学や医療で使われる紙や、不織布を製造販売しているそうだ。
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