なぞの生命体とブックフェア

2008-07-16 00:00:12 | 書評
毎年恒例の東京国際ブックフェアに行く。有明の東京ビッグサイトである。日曜日、忙しいので午前中に車で速攻する。つもりだったのだが、高速道路はガラガラ。首都高速にはどこにも渋滞なし。あっという間に制限速度以内で走って、現地到着。しかし、安い時間駐車場には、本当に長蛇の列。しかたなく、時間無制限1500円の臨時駐車場に入ることにする。



そして、臨時駐車場という名前の。ただの空き地の一角に、見たこともない奇妙な巨大植物を発見。セイタカアワダチソウの群生の中から、はるかに飛び出した巨大な雑草なのだが、エッフェル塔型である。肉厚な葉が生い繁った葉の塊の中から棒状の茎が1メートル50センチほど直立。上部には黄色の花が咲いている。いかにも熱帯性植物である。二週間後には種を撒き散らすだろう。セイタカアワダチソウを見下ろしているのだから、あと何年かすると、日本の雑草のトップの座に座るかもしれない。

場所柄、船で東京港に輸入されたコンテナに種でも付着していたのかもしれない。このビッグサイト臨時北駐車場が、この生物の日本初上陸地かもしれない。和名で命名する段には、「おおた葉草」としてほしいものだ。あるいは未知の新植物だったら、「オオタロイド」とか・・。地球外からの未知の生物だったら?

この植物をすりつぶすと、ガソリンやアルコールがしぼりとれる、というなら、大発見だが、たぶん臭い緑の汁が出るだけだろう。

ところで、最近、コーヒーの木を庭に植える人がいるようだ。お茶の木を植えて自分で飲んでいる人は大勢知っているが、ついにコーヒー豆もだ。地球温暖化(灼熱化)にめげず、利用することも考えた方がいい。溶けた南極や北極の氷は元に戻ることはないし、もっと、もっと、もっと、地球は暑くなり、二酸化酸素が増える分、酸素濃度が低くなるはずだ。英国風庭園を維持するのは難しそうだから、熱帯植物を植え込んだらどうだろう。下草刈りの時にサソリに刺されても知らないが。


そして、ブックフェアでは、今年は3冊と1枚のDVDを購入。



『源氏物語を読む』。今年は光源氏登場千周年だそうだ。不滅のプレーボーイの手管を勉強しようかと・・

『江戸の禁書』。江戸時代は実に多くの書物が禁止になっている。実は、現代でも版元が勝手に書籍を回収したり、事実上の禁書はたくさんあるのだが、やり方が陰険になっている。

『国マニア』。交通新聞社という趣味的な出版社。いままでに聞いたことのないような、国の名前が羅列されている。
 トゥバ共和国(なぜか台湾が領有権を主張するシベリアの小国)、沿ドニエストル共和国(レーニンの銅像がそびえる今でもソ連)、ナゴルノ・カラバフ共和国(キリスト教徒の孤島)などだ。もうすぐ、私も私的国家を独立させるので、そのための参考。独立予定地は、多摩川の中洲。多摩川に「排他的経済水域」を設置して船釣り権やタマちゃん鑑賞権といった海産物を独占するつもりだ。

『モーツアルト交響曲40、41番(ムーティ指揮ウィーンフィル)』 モーツアルトを、独立する多摩川共和国の国歌にする予定だ。



ところで岩波書店のブースで話し込んでしまった。何の間違いか、ビッグサイトの会場入口の受付に招待状と名刺を渡したら、ネームプレートが「専門家」というカテゴリーになってしまったからだ。一体、何の専門家?岩波は専門家が大好きなのだろう。これから、次々と全集が出るそうだ。パベーゼ全集、ギリシア喜劇全集など。

通り魔、近づく

2008-07-15 00:00:24 | 市民A
先日、アキバ無差別殺人のときは、容疑者の借りたレンタカーが、静岡方面から東名高速で東京方面に向かい、なぜか都内ではなく、早朝の東名横浜青葉インターから一般道(国道246号線)に降り、秋葉原までの時間調整をした。

横浜青葉インターは、自分の居住地から数キロのところであり、「途中で気が変わっていたら、危なかった・・」と思ったのだが、その時は、「都内まで高速で行かないのは、心に躊躇があったのではないだろうか」とも思ったが、その後の報道を見ると、掲示板に犯行予告を何度も携帯から書き込み続けていた、ということなので、書き込み操作を行うために、高速から降りていなければならない必然性があったのだろう。

そして、さらに近いところで事件が起きた。

横浜・あざみ野駅で通り魔か、会社員が太もも刺される
7月14日11時40分配信 読売新聞

14日午前8時15分ごろ、横浜市青葉区あざみ野の市営地下鉄あざみ野駅のホームで、電車を待っていた東京都品川区の男性会社員(46)が何者かに左太ももを刃物で刺された。

傷は幅約5センチ、深さ約7センチで、男性は約3週間のけが。男性は「ちくっと痛みがしたので見てみたら、出血していた」と話しているという。青葉署は通り魔事件の可能性もあるとみて捜査を始めた。

同署幹部によると、男性は出勤途中、同駅構内のエスカレーターを降り、ホームで電車を待っていた。当時、通勤通学のラッシュ時間帯で、多数の乗客で混雑しており、ホームの防犯カメラでも男性が刺された様子は確認できないという。

神奈川新聞(カナロコ)
会社員が刃物で切られる/横浜市営地下鉄あざみ野駅
社会 2008/07/14  十四日午前八時十五分ごろ、横浜市青葉区あざみ野二丁目の市営地下鉄あざみ野駅ホームで、会社員男性(46)が刃物のようなもので左脚ももを切られた。約三週間のけが。青葉署は傷害事件として調べている。

読売の「傷は、幅5センチ、深さ7センチで、3週間のけが」というのは、間違いだろう。太ももを深さ7センチも切られて、3週間のけがで済むとは思えない。深さ7ミリの間違いか、全治3ヶ月の間違いだろう。

事件は、横浜市営地下鉄あざみ野駅(始発駅)で起きたのだが、あざみ野駅は市営地下鉄と東急田園都市線の乗り換え駅でもある。あざみ野から新横浜(新幹線)を経由し、横浜からさらに遠方まで続く。全車各駅停車である。私は、田園都市線を利用していて、あざみ野駅は事件発生の15分前、ちょうど8時頃、通過している。

そして、あざみ野駅だが、この時間のパターンは、ホームの両側に電車がいて、4分間隔で発車しているのだが、始発駅なので、座席に座るために次の電車を待つ列ができている。記事から言うと、8時15分頃で、被害者は列に並んでいた、とのことなので、8時18分発の上永谷行きは既に座席がなく、まもなく到着する8時22分発の湘南台行きの列に並んでいたのだろう。

そこに、犯人が現れ、刃物を使って犯行に及ぶ。ここから先は想像だが、犯人は、犯行後、電車に乗ろうとはしないだろう。エスカレーターで地上に上がり、どこかに立ち去るか、東急田園都市線に乗り換え、東京方面または中央林間方面に向う(最近の犯罪操作は、こんな当たり前のことを考えてはいけないのかもしれないが)。逆に言えば、犯人は、横浜、新横浜方面から市営地下鉄に乗って、終点あざみ野駅にきた。だから、ビデオなどでも探しにくい。

しかし、切符ならば、あざみ野駅で回収され指紋が残っているはず。あるいはPASMOであれば、出場記録がホストに残っている。犯行時間8時15分から、かなり犯人を絞り込めるのではないだろうか。


また、横浜市内では、この件以外でも、最近、事件が起きていたようだ。(神奈川新聞カナロコ)

鶴見で通り魔か、74歳男性が太もも刺されけが
社会 2008/06/05  五日午後二時ごろ、横浜市鶴見区生麦三丁目の「明神前」バス停前の歩道で、バスを待っていた近くに住む無職男性(74)が、「男に左足太ももを刃物のようなもので刺された」と一一〇番通報した。

鶴見署が通り魔事件とみて調べている。男は後ろから無言で刺して逃走。三十~四十歳ぐらいで身長約百六十センチ、白色のシャツに茶色いズボン姿だったという。


また、電車で5駅東京寄りの梶ヶ谷(川崎市)では平成18年9月23日未明に、梶ヶ谷トンネル内殺人事件が発生。仕事帰りの女性がトンネル内の歩道で刺殺されている。未解決。


ところで、中学生のときに護身術を教わっている。柔道教師からだ。刃物で襲われた時は、自分の体を相手の甲側にかわし、刃物を持った手首を両手でつかみ、一旦、上方に持ち上げ、相手の体が伸び上がったところを足払いにして、さらに仰向けに倒れた相手の上に乗り、手首を逆手に曲げて刃物を奪い、みぞおちにパンチを食らわせばいい、ということらしい。


幸い、今まで、その秘伝の技を使ったことはなかったのだが、そろそろ役に立ちそうな予感である。いや、誰かが取り押さえてくれたら、最後にパンチを食わせるところだけかな。


もっとも、技を教えてくれた柔道教師。その後、婦女暴行事件を起こしたと聞いている。そういう技は教わらなかった。

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シビリアン・コントロールは?

2008-07-14 09:00:00 | 市民A
1ヶ月前だが、6月10日に、魚釣島周辺で始まった日台間のこぜりあいは、若干の不安感を感じる状況である。

その後の報道の一部(SANKEI)から。


尖閣諸島事故:「開戦も排除しない」 議会答弁で台湾首相
【台北・庄司哲也】沖縄県石垣市の尖閣諸島・魚釣島(台湾名・釣魚台)付近の日本領海で10日、台湾の遊漁船が日本の巡視船と接触し沈没した事故をめぐり、台湾の劉兆玄・行政院長(首相)は13日、日台間の領有権争いに関する議会答弁で「最後の手段として開戦も排除しない」と発言した。

立法院(国会)は12日、尖閣諸島周辺への軍艦派遣の要請書を国防部(国防省)に提出した。台湾で対日抗議の声が高まっており、馬英九総統も尖閣諸島の領有権問題で強い姿勢を示さざるを得ない。


その後、保釣船(釣り船ではない。保=防衛、釣=尖閣諸島)やら、海洋調査船やら台湾側の挑発が続いている。

まあ、国境紛争で実効支配されている側は、とりあえず、問題の所在を明らかにして国際問題化する、というのが常道なので、まともに取り合ってはいけないのだろう。(逆のパターンが竹島問題)

しかし、今回の騒ぎの最初のできごと、つまり「遊漁船の沈没」に戻って考えると、かなり日本側にも問題のある対応だったのではないか、と考えられる。


領海警備中の巡視船こしき(鹿児島海上保安部所属)と台湾遊漁船の連合号(乗組員3人、乗客13人)が接触、連合号は約1時間後に沈没した。救命いかだに乗り移った16人全員をこしきが救助、うち船長が顔などに擦り傷を負った。(中日新聞)


何しろ、相手は「釣り船」である。民間人。同様の事件では、1983年9月1日、大韓航空機がサハリン上空で撃墜(269名死亡、内日本人28名)された事件がある。当時の韓国や日本の戦力でソ連に宣戦布告するわけにはいかなかっただろうが、ソ連は国際世論を敵にまわした。

さらに第一次大戦に米国が参戦したきっかけが、ドイツ軍による客船ルシタニア号撃沈(死者1,198名、内米国人128名)であった。民間人が犠牲になった場合、開戦世論が高まるか、あるいは開戦世論が高まっている場合、起爆剤になる。

遊漁船はプラスティックだったのか木造船だったかわからないが、鋼鉄製の護衛艦と体当たりしたら、バラバラになるのは自明のこと。飛行機ではなく、沈没まで1時間あったため、犠牲者がなかったものの、あたりどころが悪ければ、一瞬にして海中に没っしてしまう。

そこで考えなければならないのは、当事者が防衛省ではなく国土交通省の外庁である海上保安庁ということである。世界の戦争を見ると、その開戦というのは結構偶発的な事件から起こっている。国境の一発の銃弾とかだ(もちろん第二次大戦のドイツのように、一気に大軍を動かした例もある)。



そして、現代の日本を考えると、一応、シビリアンコントロールになっているとされる防衛省の正規軍は、領空侵犯とかミサイル防衛網とかハイテク系になっているわけだ。もちろん、巨大陸軍を終結させて日本本土に上陸させようというのなら陸上自衛隊が出動するわけだが、現実的には、国境の島とかで戦闘スタートになる可能性が高いわけだ。日米安保がある以上、日本全土制覇は無理だから、とりあえず一島だけからはじめて・・とか。

そうなると、海上保安庁が対処することになるのだが、では、防衛省と同じようにコントロールできるか、ということになる。現場の暴走とか深追いとか、政府中枢からの的確な意思疎通が現場に流れているか。ここにかかっているのだが、・・・。

例えば、米国には同様の組織で沿岸警備隊がある。しかし、この組織は平時は軍から独立しているが、戦争が始まると軍に組み込まれることになっている。指揮権の一本化である。しかも、考えてみれば、米国本土に海軍を送って、正面攻撃しようと本気になった国は、久しく現れていない。一方、日本近海は「海のバルカン半島」といった領土問題危険地帯でもあるわけだ。日本近海の領海、接続水域、排他的経済水域を眺めれば、太平洋側のロシア、韓国、中国、台湾あたりは、日本を太平洋への出入口に居座る「銭湯の番台」みたいに思っているだろう。「奪えなくても、島ごと爆破して消してしまおう」とか???

さらに、正規軍でない組織というのは、えてして好戦的なのである。前述の対韓航空機撃墜事件でも、ソ連空軍ではなく、ソ連防空軍の迎撃戦闘機が攻撃を実行している。

国家公務員削減の波をかぶらないように、『デモンストレーション行為』として体当たりした、とは思いたくないのだが、それでは海の関東軍だ・・

最澄と空海

2008-07-13 00:00:46 | 書評
色々な縁で、古い本や雑誌の在庫があり、少しずつ片付けている(つまり資源化)。読まないものもあるし、目を通すものもある。最近、読んだのが、最澄と空海のことについて書かれたNHKのテキスト。平成元年6月~7月に放送されたもので、最澄については、瀬戸内寂聴さん、空海については梅原猛さん。



もとより、高級宗教のことや宗教的なことはよくわかっていない。以前、カルロス・カスタネダの本を大量に読んで、インディアンの原始宗教を勉強したのだが、よくわからないまま、終わったことがある。ハッパを体験しなかったからわからなかったのかもしれない。天台宗や真言宗といった密教のことは1%もわからない。それでも一応、家系はそういう密教的な宗旨に属している。

さて、瀬戸内さんは、本職なのである。それも大物。一方、梅原さんは、宗教家ではない。あえていえば歴史家に近いのだろうか。さらに文化史。ところが、この二人のアプローチは、その逆で、瀬戸内さんは、最澄を宗教家としてではなく、一人の気の弱い、しかし必然の中で踊らされた歴史のピエロとして解説している。

一方、梅原さんは、空海を、その歴史的人物としての面より宗教家として、いや哲学者として表現している。まあ、人間として、宗教家としての完成度としては二人とも空海の方を上に見ているのだから、二人を対として見るのが傍観者的な面白さなのかもしれない。とりあえず、個人的な感想として考えてみる。


空海と最澄。この二人の思想家を並べるなら、やはり804年7月に九州を発した遣唐使節のことからだろう。当時の遣唐使は、コロンブスの航海のように、不確実性の世界。従来は対馬から朝鮮半島方面に北上し、渤海湾の中を横断していたコースが、新羅と日本の国交が険悪化されたため、南コースに変わっていた。五島列島で一旦、英気を養い、そこから一気に中国を目指すコースに変わったそうだ(英気を満たすかわりに精気を満たした男もいたらしい)。

そのため、沈没率が上昇。野心家以外はなんだかんだと指名されないように逃げまわっていたそうだ(遣唐使廃止の本当の理由だろうか)。そして、彼らを加えた遣唐使は4隻に分乗。空海は第一隻、最澄は第二隻。そして3隻目と4隻目は海に消えた。空海の乗った第一隻も暴風雨で針路を失って、かろうじて中国に漂着。まともだったのは最澄の船だけ。

ところで、この時、最澄は37歳。時の桓武天皇のお気に入りになっていて、新進気鋭。天皇から「私の健康も、問題だらけだ。聞くところによれば中国では、密教というあたらしい宗教が現れて、難病を治してくれるらしい。さっと行ってさっと覚えてきて祈祷してくれないか」という乗りだったようだ。一方、空海は30歳。この空海だが、仏教の勉強をしていたのではなく、中国の思想(儒教など)を勉強しているうちに、山林で修行をするようになる。そして、どこかの山で、空と海だけみているうちに、「自分なりの悟り」に到達したという話である。しかし空海は中央政府では無名。その無名の天才がどうやって遣唐使になったのか、はっきりしないそうだ。

結局、速攻で密教を持ち帰る任務の最澄に対し、空海は20年間勉強することを条件に船に乗っていた。キャリアとノンキャリみたいなものだ。

そして、最澄は天台山に上り、慣れぬ外国語に苦労しながら、1年で密教を速攻習得する。ごく一部のテキストを持ち帰る。まあ「密教入門」みたいな本だったのではないだろうか。そして、翌805年に帰国し、桓武天皇の重病を平癒祈願するが、効果があったのか無かったのか、翌806年、桓武天皇崩御。そして平城天皇になるのだが、この天皇は、慎重居士だった。そして、最澄にとって不幸は、20年間帰ってこないはずの空海が2年で帰ってくる。空海側の事情は、当時、中国・インド・チベットあたりでもっとも権威のある僧の弟子になっていたのだが、あっという間に弟子のトップになる。そして、2年でその僧が亡くなるや、「もう、教わることはない」と夜逃げのように逃げてきた。日本では、「2年で変えるのは契約違反だ。渡航費を返せ」、と言ったかどうか知らないが、早帰りを許してもらうために時間が必要だった。

そして、空海は、時の天皇に食い込むことに長けていて、色々と手品のようなワザを見せたらしい。例えば、温泉を見つけるのがうまい、とか余技に長けていたようだ。そして806年、最澄は空海を知ることになり、自分の浅学を恥じる。そこで、7歳の年上を恥ずかしくも無く、経典を貸してくれないか、と空海に頼んだりする。最初の頃は、無料だったらしい。その後、最澄は次々に空海から本を借り続け、対価の替りに、弟子をした働きとして空海に貸したりする。

そして、要求がエスカレートして、空海が切れる。もっとも重要とされる「理趣釈教」を貸してくれと言われ、「本など読んでも仏教はわからない。行に励まない人間には経典は貸さない!」と貸与拒否。この後、最澄は落ち目で失意の生活を送り54歳で没。空海は宮廷に食い込んで勢力を拡大し、60歳で没なのだが、今でも高野山の山中で生きているという説もある。


実は、来年の春には、真言宗のある寺院を訪れようとも思っているのだが、空海のこと、もっと研究しておくことにする。

日めくり、930題応募!

2008-07-12 00:00:20 | しょうぎ
『日めくり詰め将棋カレンダー2009』は5月の初めの方から6月末までが投稿期間だったが、6月20日頃の段階で、応募作が400作程度で、しかも余詰作(不完全作)が多い、との情報があり、既に何題かは送っていたのだが、締切り直前に2問作り、とりあえずメールで追加してみた。

ところが、・・・

最終日(6月30日)に大量に到着したようで、930題になったそうだ。人間心理ってよくわからない。行方不明のタンス株も最後の1日に証券会社に持ち込まれるのだろうか。最後の1日に持ち込まれるタンス株は何かの「ワケアリ」に違いないだろうが、最後の1日に持ち込まれた詰将棋にも、何かわけ(不完全作)があるのだろうか。

どっちみち、早い方から順に番号を打たれ、若い番号から審査されるのだろうから、後の方は審査員も疲れ果てているのではないだろうか。とにかく、締切りとなり、930題は、4人の巨匠による公正な審査に委ねられることになった。LPSAのホームページ情報では5手詰以下を優遇するような雰囲気が感じられる。

ところで、昨年のカレンダーだが、ハガキ大の問題にかかわらず、かなり大きな台紙がついていて、ちょっと邪魔になっている。台紙はいらないのではないだろうか。実は、時々、トイレで座りながら解いているので、大きいのはちょっとかさばる。台紙がないと、カレンダーコーナーで「押し」が足りないというのなら、台紙は着脱式にならないものだろうか。

が、トイレで解いた後、破いてその場で再資源化できるようにしてほしい、とは言わないことにする。

それと、校正ミスの件だが、たまたま2008年判では1ヶ所の解答ミスと1ヶ所の問題ミス。問題ミスの方は、さいわい簡単な別解があったので、最悪は免れたものの、詰まない図を掲載するのだけは注意が必要。


171030bc.jpgさて、6月28日出題問題の解答。

▲5一角成 △4三玉 ▲5四銀 △3四玉 ▲5ニ馬行 △3五玉 ▲2五馬 △4六玉 ▲4七銀 △3七玉 ▲1五馬 △2七玉 ▲3六馬 △1七玉 ▲2六馬右まで15手詰め。

仮に4七銀を同飛ならば、7三馬まで。

7七の飛車を無しにして、2五の銀も無しにすれば簡単な図になるのだが、それでは飽き足らず蛇足的な手数伸ばしをしてみた。

元々、捨駒が好きじゃないのだが、本作も使用駒は1枚しか減らない。それも2手目に玉が取った桂馬だけだ。

動く将棋盤はこちら




171030bc.jpg今週の問題は、きわめてシンプル。

選択できる手順が少ないので、難解さはまったくない。

たまには、解答を書くのも楽にしたいから。

わかった!と思われた方は、コメント欄に最終手と手数と酷評いただければ、正誤判断。






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美食国家の本領発揮

2008-07-11 00:00:33 | 市民A
サミットは終わり、成功か失敗か、各紙によって評価がわかれるようだ。ということは、大成功でも大失敗でもないのだろう。その中で、このサミットのハイライトである7月7日の晩餐会が小さな話題になっている。

美食が並ぶサミット・ディナー、利尻ウニやオホーツク毛ガニも
7月8日8時5分配信 ロイター

[北海道洞爺湖 7日 ロイター]首脳間の白熱した議論とともに毎年のサミットで注目されるのが、ホスト国の知恵を絞った首脳夕食会の美食メニューだ。「総理夫妻主催 社交ディナー」と銘打った7日夜の晩餐会には、各国首脳が夫人とともに招かれ、利尻島のウニ、オホーツク海の毛ガニ、白糠(しらぬか)の子羊肉など北海道が誇る高級食材を使った豪華料理に舌鼓を打った。

日本政府のサミット事務局によると、このディナーは「北海道のすばらしい食材を中心に和洋折衷の料理で首脳夫妻をもてなす」のが目的。前菜には、キャビアやウニ、スモークサーモンなどが盛り込まれ、日本人が初めて設立したワイナリーで造られたシャンパンが供された。

七夕飾りの付いた皿に盛られた美瑛産のアスパラや和牛の冷しゃぶ。毛ガニのスープや網走沖で獲れたキンキの塩焼き。メーン料理は黒トリュフ風味で調理された子羊のロースト。

ワインは、ブルゴーニュ産の白、カリフォルニア産の赤、デザートワインとしてハンガリー産のトカイワインが準備され、静岡県の清酒「磯自慢」も日本産の代表として各国首脳に振舞われた。

この日、アフリカ諸国との拡大会合で深刻な貧困や食糧対策を議論したG8各首脳。しかし、ディナーでは、夫人とともにサミットならではの美食メニューを堪能し、会場となった「ザ・ウインザーホテル・洞爺」2階の和食レストランは華やかな雰囲気に包まれた。最終更新:7月8日8時5分


どうも、英国系のジャーナリズムは、一斉に「美食批判」をしているらしい。「食料危機がテーマなのに、この豪華なディナーは何だ!」ということだ。

「食文化が欠落している国が何を言うか!日本はミシュラン三ツ星大国だ!」

と言いたいところを我慢して、冷静に考えてみる。

まず、本当にすごく豪華か?というと、そうでもないのではないだろうか。

前菜:キャビアとウニとスモークサーモンの盛り合わせ
 キャビアもウニも高級食材だが、何しろ前菜である。ちょびっとだろう。ウニも本場北海道ではそんない高くないだろう。まさか、ウニが生のまま出たわけじゃないだろうから、焼いて破片のようになっていたのではないだろうか。スモークサーモンは格安だろう。日本のワイナリーのシャンパンだし。

アスパラと和牛の冷しゃぶ
 北海道のアスパラは安いが、和牛の冷しゃぶは問題がある。「和牛」はピンキリである。黒毛和牛A5ランクから乳牛まで。しかし、メインディッシュではない、冷しゃぶなら、3切か4切ではないだろうか。(ソースがゴマかタレかはっきりしない。)

毛蟹のスープ
 これについては、ちょっとイメージが想像できない。新しいメニューのような気がする。イセエビのスープのようなものだろうか。最近読んだ「蟹工船」には、紹介されていなかった。

キンキの塩焼き
 キンキは単価的には超高級魚になっているが、外国人が塩焼きを食べて、その価値を見出すかどうか、相当疑問がある。日本人の自己満足に終わってもったいないなあ、と思えるのである。ペリーが日本に来日したときに用意した土産の小田原提灯みたいなものかもしれない。

メーン料理は子羊のロースト
 札幌ビール園みたいだ。国産のラム肉ということだろうか。

ワイン
 白はブルゴーニュ、赤はカリフォルニア、デザートワインはトカイワインというのはまったく普通と思う。

静岡県の清酒「磯自慢」
 これは、まったく不思議だ。なぜ、日本代表になったのだろうか。背後関係(利権関係)が知りたい。

こうみると、案外、食料危機を回避した食材のように見えなくもない。野菜と魚介類。それも沿海物だ。コーンや米の値上げに関係ある食材は少ない。子羊は草を食べているのだろう。気になるのは冷しゃぶ用の牛肉くらいか。


とはいえ、食材のわからない英国人から、無用な突っ込みを入れられそうなのは、開会直前には感じていたはず。もっと無難なメニューに入れ替えるべきだったかもしれない。キャビアでなく、イクラかタラコに換え、キンキではなくホタテを塩焼きにして、、毛ガニのスープではなくワタリ蟹の味噌汁とかだ。それと、冷やし牛しゃぶは米国産にするとか


このメニューのことを調べてみると、サミットの半年前から研究していたそうだ。道産素材を中心に試作に試作を繰り返すという念の入れようである。現場の厨房サイドでは、直前のメニュー変更など不可能、と言うのだろうが、実際にそんなことはないはずだ。要するに、メニュー入れ替えの「ツルの一言」が言える「決断の政治家」がいないからだろう。善悪はともかく、愛知万博の「弁当持込禁止制度」を、ただの一言で撤回させた小泉首相とはまったく力量が違う、ということなのだろう。


話は、メニューから離れるのだが、このように国の指導者のリーダーシップがボロボロになっていく、という例が歴史には散見できる。

近くには、1939年1月から8月までの平沼内閣。緊迫の国際情勢の中、ノモンハン事件で大敗したあと、独ソ不可侵条約を読みきれず、空中分解。その少し後に登場した第二次近衛内閣は1940年7月から1年頑張り、41年7月18日に第三次近衛内閣を組閣したが、3ヶ月で崩壊する。江戸末期の徳川慶喜。1866年7月20日、14代将軍家茂が亡くなった後、徳川家を継ぐが、1年後に大政奉還。翌1868年、江戸幕府崩壊。はるか昔に遡れば、1180年、平清盛亡き後、急遽家督を継いだ平宗盛。5年間で政権は崩れ去り、1185年3月24日、壇ノ浦で平家滅亡。実際には、捕虜となり、東国と京都の間を引き回された末、7月19日に子息らとともに斬殺。

7月は政権騒乱の月である。

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難しい言語、やさしい言語

2008-07-10 00:00:06 | 市民A
d560f986.jpg名古屋大学教授で言語学者、町田健氏の講演を聴きに行く。

町田教授の専門は、ソシュールとかチョムスキーだったはずで、そういう視点からの各国語の構造的解剖かと思っていたのだが、あまり難解な世界へはあえて足を踏み入れないように講演内容にバリヤーを作っていたので、ちょっと物足りないところはあった。

世界の多くの言語を、いくつかの分類方法にわけて、その中で、日本語とか英語の位置を決めて難易度を考える、という趣向だ。


まず、世界に言語は何種類あるか、ということだが、「7000種類位」とのこと。「七千」である。国の数が、約200なのだから、一国あたり35種類もある。ところが、例えば、日本でも琉球や薩摩、また津軽あたりに行くと、まったく話してもつながらないのだが、それらもまとめて、日本語は1種類ということだそうだ。地方によって発音の異なる中国語も1種類とのこと。

韓国と北朝鮮は2ヶ国で1言語。じゃあ、どこが多いのか。およそ見当が付くだろうが、アジアやアフリカの奥の方やマダガスカルからインド洋、太平洋と広がりイースター島にいたる島々で使われる、オーストロネシア語族。つくづく、比較言語学というのは、非効率な労力が必要な学問だ、と同情してしまう。


そして、世界の言語は、インド・ヨーロッパ語族、ウラル語族、ドラビタ語族、セム語族、オーストロネシア語族のように似たもの同志でグルーピングされているのだが、「もし、世界の人類のルーツが1ヶ所であれば、元の言語は1種類である」と考えられている。人類が誕生した段階で、言語は存在したと考えられているからだ。しかし、実際の各国語は、まったく文法的語順が違っていたり、基本的な名詞の発音も異なる。それらの矛盾的な事象を調べようにも、原始言語について証拠も何も残っていないのは確かなので、誰も研究しないそうである。そして比較言語学という分野が可能になる。


そこで、日本語だが、どこの語族にも入らない出所不明な言語として有名だそうだ。同じく韓国・朝鮮語、アイヌ語なども類縁がないそうだ。もちろん、半島との文法的類似やインドネシアの島々との用例的類似があるそうだが、全体として、どこかの言語と似ているとまでは言えないそうである。

(おおた註:出所があいまいな縄文人と半島系の弥生人が混血した、というのが最近の民族学の大勢であるが、文法としては半島系弥生人が勝ち、単語としては原住民の縄文語を用いたのではないだろうか。現代でも、英語的な和製英語はほとんどが「単語」として日本語に同化しているが、文法はそのままだ。)

そして日本語は”膠着語”といって、一つの言葉の後ろに、助動詞や助詞をつけて、長い文章を作ることができる。「話しかけられたらしいね」とかだ。世界の言語の6割は膠着語だそうだ。これに対して、文法的なコトバを使用せず、単語の並べ方で文法をつくる中国語、タイ語、ベトナム語という分類や、名詞や動詞が活用して、その活用で意味をあらわす”屈折語”といったことばがある。古代ギリシア語・ラテン語、ロシア語、チェコ語というグループで、特にチェコ語は町田教授曰く、「世界で最も難しい言語」ということらしい。

そして、発音面では、日本語は特にやさしい方の言語で、母音も子音も数が少ない、とのこと。逆にアクセントは難しく、関東と関西で異なっている(というか、気にしなくてもいいのだろうが)。

動詞の活用と言えば、「する」と「くる」以外は規則的な五段活用と一段活用の二種類。時制については、「現在形」と「過去形」の二種類。冠詞もなければ関係詞もなし。疑問文は語尾を上げるだけ。

逆に、話し言葉で難しいのは「敬語」で、あらかじめ、話し相手と自分の身分関係を把握していないと正しいコトバが使えないようになっているそうである。(おおた註:「・・しても、よかったでしょうか」というような奇妙な言葉は、相手と自分との距離感が不明な現代的サービス産業独特の表現が蔓延したのだろうか)

つまり、日本語は、「多くの部分で、かなり易しい言語」である、と考えられているそうだ。(おおた:だから外国語が不得意なのかもしれない)

一方、英語だが、かなり例外的な言語であるそうだ(というか、それはみんな知っている)。ある意味、ここ100年単位で変化している部分も多く、変化の過程だそうだ。単語の発音でも、母音が4つくらいついている長い単語でも、中心的な母音を1個だけ正しく発音して、残りは、「アー」か「ウー」か「エー」かよくわからないように発音。

町田教授は「国際問題に発展するといけないから、ここだけの話」として、「文明が発達すると、言語が単純化されていく」という現象が見られる、と言われていた。二千年前に完成した中国語やイタリア語、そして日本語ということだそうだ。

そして、これから外国語を簡単に習得したいという人へ、「日本人の弱い文法についての相似性」を考えると、「語順が同じだが発音が異なる韓国・朝鮮語」よりも、さらに「語順が同じ上に発音も似ている言語」を紹介していただいた。

ハワイ語」である。


ただし、たとえ速攻で「ハワイ語の達人」になったとしても、ワイキキ海岸で美女に囲まれたりはしないはずだ。

何しろ、だいぶ以前に、この言語は「ポリネシア文化センター」送りになってしまったようだ。

「アー」か「ウー」か「エー」かよくわからないように発音する人たちのせいである。

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期待なければ、失望なし

2008-07-09 00:00:20 | 市民A
2eec12a2.jpg「期待なければ失望なし」といってもサミットの話ではない。平成版「前川レポート」といわれる『「構造変化と日本経済」専門調査会報告』のこと。

先の前川レポートは1986年。日本がアメリカはじめ世界各国に無差別爆撃的輸出を続け、GDPの成長とともに軋轢を起こしていた時代だ。いわば、「内需のすすめ」。今思えば、「輸出から内需へ」というコトバを「輸出をやめて輸入を」と取り違えた結果、国内にバブルが発生した要因の一つになった可能性を感じないでもない。

そして22年たって、平成版前川レポートが公表されたのだが、あまり評判がよくない、というか報道すら、あまりされない。というか、10年前に作るべきだった。

一応、政府のホームページの一角に紹介されている。

実は、この手の政策を政府機関が行なうというのも、やや奇妙な話で、本来は民間の政策研究所というのが機能していればいいのだが、こんなところにも、日本の問題がある。

そして、全部読んでもすぐ終わるこのレポートを読んでも、何が言いたいのか、よくわからない。

この国に今起きていることは、毎日毎日、新聞に書かれていることばかり。人口減少、老人急増、公務員過多、知能指数ダウン、偽装の産業構造、世界の中の地位低下、格差問題、農業崩壊・・・そして、どうすればいいかと言うと、経済成長政策を続けながらの格差縮小化、外国人の日本国籍取得推進、外資導入のための魅力的なマーケット作り。

まったく、そのようなことが書かれていて、

この先10年で、

1.知的創造性のある人間が世界から集まる国
2.国際金融センターの誘致

が必要ということらしい。

概念的には、

1.タテ割社会をヨコ型に
2.革新企業の創設
3.二者択一しない社会(育児と仕事の両立とか)
4.それぞれの地方が世界とつながる
5.世界的課題に貢献すること

ということだそうだ。

このレポートの最大の問題は、誰でも感じている「日本復活の処方箋」を遠まわしの上に遠まわしに言っていることだ。

”目標は前から知っているから、『プロセス』を教えて欲しい”ということなのに、だ。

たとえば、10年後には65歳以上の人口は700万人増え、15歳から64歳までの人口は800万人減るそうだ。労働人口でみても400万人の減で、GDPを引き下げること0.4%ということだそうだ。


私見であるが、現在数十万人いる国家公務員だが、一部の政策課題を扱うエリートは別にして、大部分の仕事は、高齢者でも対応可能だろう。公務員の採用は60歳以上に限定するといった荒療治を行い、一人当たり生産性の低い(あるいはゼロ、あるいはマイナス)公務員から生産業やサービス業へのシフトがいいのではないだろうか。

さらに、これから発生する団塊世代の「年金、健保、介護保険」の若年層がが支える負担に対する対策も(意識的に?)ややアバウトな表現になっている。

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サミット・8年もの

2008-07-08 00:00:42 | 市民A
2eec12a2.jpgサミットがいつから始まっていつ終わるのかよくわからないが、都心の厳戒体制は、7日から10日までのようだ。
どうも、議長の思惑と異なり、重要案件に踏み込んで、まとめるということができそうもない、という状況になっているのだが、8各国がそれぞれ抱える重要課題が異なっているというところに問題がある。

まず、8ヶ国の中に、資源大国が4ヶ国。米国、カナダ、ロシア、そして英国。無資源国側が日本、ドイツ、フランス、イタリア。温暖化問題といっても、もともと寒い国もある。ロシア、カナダ、英国。

通貨の弱い国は米国と日本。財政危機は日本とイタリア。政権が弱いのが米国と日本(米国は、今回だけの問題だが)。さらに、日本は朝鮮半島問題でも孤立気味である。

ついでに、パートナーの来ない国が三カ国もある。都会派の奥様方が洞爺湖のような田舎には行きたくないと思ったか、旦那がお忍びで秋葉原に行くのが危険だと思ったか知らないが、G8軽視も甚だしように思える。

とはいえ、G8の椅子だって、「そろそろ、お隣と替ってもらえないだろうか」と米国から通告される日が近いかもしれないのだから、憂鬱な感じが漂う。日本とカナダとイタリアの替りに中国とブラジルとインドとか・・


ところで、思えば8年前、九州・沖縄サミットがあったのだが、遥か遠い昔のように思えるだろう。当時の集合写真を見ると森首相、クリントン、プーチン両大統領などが見える。森首相が故小渕首相夫人に2000円札の贈呈を行なっている。

そして、どういうわけか、私の家には、G8記念の「サミット泡盛」があるわけだ。8年物ということだ。そろそろいいかな。

北海道も池田町あたりで、サミットワインとかあるのだろうか。ちょっと季節が違うかもしれない。

と思って、池田町のホームページを開いたら、とんでもないニュースが紹介されていた。

2頭のヒグマを射殺!
 
7月2日(水)午後6時50分頃、町内の昭栄地区で畑を荒らしていたヒグマ(オス3歳)2頭を本町の猟友会のハンターが射殺しました。

2頭のヒグマは、射殺されましたが、まだ付近に別のヒグマが出没する可能性がありますので、今後もご注意願います。

近日、他の地区でもヒグマの出没情報が多々寄せられています。ヒグマの足跡やふんを見つけたらすぐ引き返すこと。ごみは必ず
持ち帰ること。音を出して歩くなど、ヒグマと出会わないための意識を持った行動をとり、事故を防止しましょう。


自然環境との共生も大変である。

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「蟹工船」と現代

2008-07-07 00:00:58 | 書評
最近、流行の言葉に「無敵の人」というのがある。スーパーマンではない。アキバ無差別殺人のあと、事実上のネット検閲制度が始まったにもかかわらず、新たに犯行予告を書き込むものが数百件で、そのうち何人もが検挙されている。普通、犯罪者は捕まらないだろうことを見込んで犯行に及ぶのだが、彼らはいとも簡単に捕まる。



多くは、無職で一人暮らし、友達もいなければ財産もなく、ようするに警察に捕まっても”失うものがない”人であることが多いそうだ。ある意味、こういう人が危険な事件を起こしやすいのは明らかだろう。

一方、その「無敵の人」の一歩手前が、いわゆる「カニコウ」。低所得、長時間労働、低福祉・・。多くは、派遣社員の中に多い、とされる。

そして、現在、突如売れ始めた小説がある。「蟹工船」。著者は小林多喜二。北海道拓殖銀行をやめ、共産党系作家としてプロレタリアート小説を書き、1933年、特高警察になぐり殺される。すでに、著作権は失効している。売れた文庫本の収益はすべて新潮社のものだ。

この小説を紹介する前に、蟹工船の解説だが、オホーツク海で蟹を捕り、船の上で加工し、殻を割って蟹の足を紙に包んで缶詰に詰める。時々母船が回収に回ってくるだけで、長い期間、海上生活になる。東京丸の内の大手企業が蟹工船のオーナーで、数百人乗り。函館を基点としていた。製品は高額で輸出していたようで、本社の代理人として「監督」というのが乗っていて、作業の指示をしていた。

船の性格上、「漁船であり、加工工場でもあり」、本当は船員を保護する法律と工場労働者を保護する法律のどちらをも適用しなければならないのだが、「漁船でもなければ、工場でもない」と言いぬけていて、どちらの法律も適用しないで違法労働が行われていた、と書かれている。

乗っていた蟹工員は、鉱山から逃げ出した者や、ワケアリの人、食えなくなった農民漁民、事情を知らずに高給(実は低給)にだまされたアルバイト学生など。もちろん鉱山と違ってオホーツク海では、一航海終わらないと逃げ出すわけにもいかない。

病死すれば、海に捨てられ、反抗したり作業をさぼれば、殴られたり、ヤキを入れられたり。蟹捕り船(川崎船)が流されると、乗組員より船の方が大事ということになる。監督は本社の指示で、拳銃を持ち歩いて工員を威嚇する。そして、毎日の奴隷的作業(蟹の殻剥き)は延々と続く。

そして、小説では、そういう極限状況の中で、労働争議を起こそうという話になるのだが、一旦成功したかと思われるサボタージュ行為も、どこからともなくやってきた駆逐艦に指導者以下数名があえなく引き渡されてしまう、ということになり、産軍共同体国家の本質が見えてくる、ということになる。

一方、あれだけ威張っていた監督もサボタージュ発生の責任であっさりクビになるわけだ。


それで、現代の自動車塗装工場の派遣社員は蟹工員かと言うと、結構、微妙な感じが漂う。

個人的には、「自動車塗装工場の派遣社員=蟹工員である」と言っていいような気がしている。ただし、少し異質感があるのは、蟹工は閉鎖空間で、逃げようにも逃げられないというシチュエーションだが、塗装工場の場合は辞めて転職したければ、なんとかなるというか、探せばもう少しましなところはありそうなものである。80年前は労使対決型であったのに対し、現代は、労働搾取されるほうに、「もう、この境遇でもしかたない」という諦め感が漂うのである。

さらに、80年前は、カニコウの逃げ込む先に、共産主義や労働組合、地下活動家とかそういう種類の進路があったのだろうが、現代には「ソ連」もなければ、組合は「組合組織内の階級闘争に熱心」。地下にもぐるのは特定宗教家。そんな時代だから「無敵の人」になってしまうのだろうと、思う。


ところで、文庫本には、「蟹工船」の他、「党生活者」がカップリングされている。こちらは、舞台を東京都内に設定。某電線工場の左傾化を狙う、非合法の共産党員の活動を描いたもので、作者の意図とは異なるだろうが、スパイ小説のように、「追うものと逃げるもの」という政治冒険小説としても読める。仲間の誰かが捕まると、とりあえず3日間、拷問に耐え、その間に同志はアジトを変えるという「三日間ルール」があるのに、あっさり口を割る卑怯者が登場するのだが、「太田」という名前を与えられていた。

本小説、多くは実話に基づくところもあるのだろうが、ほとんどの登場人物や場所はSとかAとか伏字なのに太田だけが「太田」だ。

「おおた」が「太田」の心配をするのも、まったく変なものだが、この名前、小説やドラマでは、犯罪者や卑怯者といった小悪人によく使われている。刑事として登場したのに、実は殺人犯だったとか、悪徳市長とか反社会的弁護士とかだ。

小林多喜二は、北海道拓殖銀行の行員だった時、イジメられた支店長の名前が、太田だったのだろうか。

激アツ!、そして・・

2008-07-06 00:00:36 | 市民A
金曜(7/4)から、急に猛暑になる。いきなり5度以上上昇。梅雨は終わったのか、終わってないのか。もう一度気温は下がるのか。肝心なことは、いくら天気予報を見ても、誰も教えてくれない。半井さ~~ん!、石原さ~~ん!

 ・・・

そんなわけで、夜の暑さに耐えかね、エアコンのスイッチを押そうと・・・

ところが、リモコンというのが、肝心な時に見当たらない。



マーフィーの第一法則を思い出す。

もっとも必要なものは、もっとも必要な時に存在しない。

 (現在の日本の首相の椅子みたいだ)

捜索、5分。やっと発見し、スイッチを押す。

が、・・・

冷えない。

設定温度20度。冷やしすぎか・・

部屋を明るくして、リモコンの表示を見ると、

「暖房だーっ」

ここで、普通なら、「モード」ボタンを何回か押せばいいのだが・・

モードを押したとたんに、リモコンの全表示が消える。

電池切れ。そして、景気よく暖房が全開になる。トホホだ。

そして、電池を調べると、単4。一抹の不安を感じる。

そして数分後。不安は現実のものとなる。単1、単2、単3はありあまる在庫があるのにかかわらず、単4の在庫がない。しかもエアコンは壁に組め込まれているため、コード自体が外に出ていない。このままでは、朝まで暖房ガンガンである。

もっとも必要なものは、もっとも必要な時に存在しない、だ。

あれこれ考えたものの、結局、もっとも原始的な方法を選ぶ。

着替えて、数分のところにあるコンビ二に買いに行く。


ところで、いくつかの地方政府で、深夜のコンビ二営業の営業規制を考えているようで、コンビ二協会が行政との臨戦体制になっているようだ。論点は、省エネになるか、ということと、町の防犯ということ。

以前、少し、業界に首を突っ込んだことがあるが、確かに朝の2時~4時あたりは売上げは下がるのだが、1時台や5時台は、来客数が多い。といって、2時間や3時間店を閉めるといっても、逆に大変な労力が必要だし、夜間従業員だって、そんな中途半端では採用困難だろう。彼らが交替のつど、通勤にクルマを使うなら、ガソリンの使用は増える。

だいたい、深夜のコンビ二は、顧客がいなければ、そもそも閉店しているわけだ。経済合理性の原則が利いている。それよりも、昼間の役所のデスクワークの方こそ、3時頃に店じまいして、給料カットしてしまった方がよほど合理的ではないだろうか。

追記:マーフィーの法則には「第一法則」はない。

女流棋士の移籍

2008-07-05 00:00:46 | しょうぎ
d25074ad.jpg棋士であり、またソムリエでもある唯一の女性、船戸陽子さん(34)が7月1日から将棋連盟所属から日本女子プロ将棋協会(LPSA)に移籍になる。移籍というのは、片方を辞めて片方に移ることで、いわば転職みたいなもの。次の仕事を確保してから辞表(退会願)を出したに違いないのだろう。確かLPSAは加盟者が基金に30万円ずつを拠出して出発したはず。彼女も払ったのだろうかと、つまらないことを思ってしまう。

まず、ニュースの伝え方。日本将棋連盟HPから。


船戸陽子女流二段が退会(6/25)

この度、6月30日付で船戸陽子女流二段が日本将棋連盟に退会届けを提出し、理事会で受理されました。
また、7月1日付で日本女子プロ将棋協会(LPSA)に入会届けを提出いたしました。
今後は、日本女子プロ将棋協会(LPSA)所属女流棋士として、各女流公式棋戦に出場いたします。

当然ながら、味もそっけもない。実際の所、最初の一行だけだっていいのだろうが、それでは問い合わせが殺到するので、付け加えたのだろう。

次に、加盟先のLPSAのHP。


船戸陽子女流二段、LPSA入会のお知らせ

このたび、日本女子プロ将棋協会(LPSA)に新入会員が登録されることとなりましたので、ご報告申し上げます。
日本将棋連盟所属女流棋士二段の船戸陽子(ふなと・ようこ)は6月30日を以って将棋連盟を退会し、7月1日付けで当協会に入会します。
今後は日本女子プロ将棋協会所属女流棋士として、公式戦ほか各棋戦に出場致しますので、よろしくお願い申し上げます。

船戸陽子二段のコメント
「長年お世話になりました将棋連盟を巣立ち、LPSAに入会することになりました。環境は少し変わりますが将棋はこれからも続けていきますし、私が私であることに変わりはありません。新天地で自分でできることを見つけていきたいです。今後もどうぞ応援よろしくお願いします」

<船戸陽子二段 プロフィール>
1974年4月23日、東京都渋谷区出身。
1986年育成会入会。1988年3月、3級で女流棋士に。
1990年3月29日 1級
1991年3月11日 初段
2000年4月1日 二段
居飛車党で早見えの攻め将棋。
教室「マンデーレッスン」の講師を第1期から務める。
日本ソムリエ協会認定ソムリエの資格を持つ。
マイクロソフト社のサイト「INNO.」にて巻末コラム「マイ デジタル ワイン ライフ」連載中。

もちろん、紹介もかなりの分量であるが、プロフィールをよく読むと、LPSAの「マンデーレッスン」の講師を1期から務める、と書かれている。以前から「こっそり」仕事をしていたということなのだろうか。狭い業界なので、すぐに知れ渡るだろうから、鬼会長から呼び出され、詰問の末、追い出されたのかもしれない、と想像。

そして、新聞社の報道は、この二団体の発表を適当に仕立て直したもののように見える。

毎日新聞。


船戸陽子女流二段が6月30日付で…

船戸陽子女流二段が6月30日付で日本将棋連盟に退会届を提出し、受理された。7月1日付で日本女子プロ将棋協会に入会する。同協会所属は18人になった。「新天地で自分ができることを見つけたい」とコメント。2008年7月1日

次に、朝日新聞。


船戸女流二段、日本女子プロ将棋協会に移籍

将棋女流棋士の船戸陽子女流二段(34)が、6月30日付で日本将棋連盟を退会し、7月1日付で日本女子プロ将棋協会(LPSA)に入会した。今後は同協会所属として公式戦など各棋戦に出場する。

昨年5月末に女流棋士17人が同連盟から独立して協会を立ち上げたが、設立2年目にして初めての移籍。連盟所属の女流棋士は40人(引退3人含む)、協会所属は18人(引退3人含む)になる。 2008年7月1日

あえて言うと、朝日の記事では、「初めての移籍」と強調されている。「初めて」という意味が、「これから増える」ということか「2年も経って一人しかいない」という意味なのか、はっきり評価しないで、読者に投げている。

さらに一歩も二歩も踏み込んだのが、読売系のスポーツ報知。女流名人戦のスポンサーだ。


船戸女流2段、移籍1号…女子プロ将棋協会へ

日本将棋連盟(米長邦雄会長)の船戸陽子女流ニ段(34)が、同連盟に退会届を提出し、日本女子プロ将棋協会(代表理事・中井広恵女流六段)に入会届を提出したことが25日、両団体から発表された。
退会は6月30日付、入会は7月1日付となる。協会は昨年5月30日に、連盟から独立する形で設立され、17人が参加。連盟が公益法人改革にともなう組織変更を検討する中での移籍第1号となった。船戸女流ニ段は「新天地で自分にできることを見つけていきたい」とコメントした。 6月25日


まず、「移籍1号」となると、2号、3号という予感を与える。さらに、「公益法人改革にともなう組織変更を検討する中での移籍第1号となった」となると、かなり深刻な裏事情を感じさせるに十分である。

勝手な想像だが、棋士は女流といえども実力の世界。常に強くなる、あるいは弱くならないことを求められている。どうすれば、強くなるかというと、一つは、公式戦の数。さらに、男性棋士や奨励会員などに混じっての研究会に顔を出すこと。さらに、棋譜の研究。そして、それらと相反するような、「イベント出席を減らすこと」ということかもしれない。

少人数のLPSAに入れば、そういう行事関係への出席が多くなるのは当然のことで、そのため本業の将棋の方が弱くなるのではにだろうかと、思っていたのかもしれない。ところが、実際に残留してみたものの、やはり庶事が多く、「これなら移籍した方が対局も増えるし・・」と考えたのかもしれない(あくまで想像)。

まあ、移った以上活躍するというのが、世間の例だが、なかなか相手もいるのでそう簡単にもいかないだろう。対立する2団体の間で態度を変えた例は、関が原の小早川秀秋が有名だが、その功績でまんまと備中50万石を手に入れたにもかかわらず、数年後、不幸に見舞われる。もっとも、関が原で寝返った大大名は秀秋だけであって、他の西軍大大名は、単に敗者として没落した。参考になるのかならないのか・・

あるいは、トロイの木馬。




ところで、船戸さんは、ソムリエでもある。ブログ「ワインづけ」を読むと、ワインとレストランの話が中心だが、今回の移籍の件がさりげなく数ヶ所に書かれていた。


6月24日

・・・・
ずっとずーっとお世話になった職場を6月いっぱいでやめます。
そしてちょっとへんぴなところにうつります。
・・・・


6月30日

・・・・
昼すぎからワインのんじゃった。
しかも仕事のはなしなのに飲んじゃった。
今日で仕事が一段落なのでおつかれさま。ということで。
と言い訳してみる。
今日は花束いただいたりとかね。
泣いちゃうかと思ったですよ。
・・・・

>「へんぴな場所」→さすが渋谷区生まれ
>「泣いちゃうかと思った」→泣かなかった

将棋が強くなるために、移籍したのならいいのだが、ワイン代を稼ぐために生活を見直すというのなら、いつか同じような例があると聞いたことがあるのだが・・・


d25074ad.jpg今回の問題だが、今週の解答と同様に、手数だけは長い。見た感じ、盤上の駒が全部消えてなくなりそうにも見えるが、そんなことはない。本当は、どこかに投稿したいが、手数と難易度から言えば、そういう出来ではないので、ここに置いておく。あとで、解答を書く作業が気が重い。

最初に一汗必要で、そのあと、繰り返し作業がある。さらに追跡が続き、最後にやっと、ということになる。7八歩にも意味はある。

いつものように、わかったと思った方は、コメント欄に最終手と手数と酷評をいただければ、正誤判断。




野面積みの美

2008-07-04 00:00:31 | The 城
006d14e6.jpg「人は石垣、人は城」とは、武田信玄の兵書に書かれたコトバで、「城など作らなくても人間が信頼関係の元に結束すれば、それの方が堅固である」、という意味であり、実際に甲府には武田家の館はあったが、石垣をくみ上げた城郭や天主閣はなかった。

実際には、城があってもほとんどの大名は滅び、堅固な主従関係も狡猾な戦術によって崩されてしまう。いつの時代も、「勝利の方程式」はきままだ。

そして、信玄は「石垣」と軽く書いているが、この石垣というのも眺めれば眺めるだけ多様なのである。一つは、工学的観点からみて、堅固ということは技術の裏づけがいることと、城を築く「時間的余裕」、「財政的余裕」とうらはらの関係にある。

さらに、その築城された時代の歴史的必然性とか考えるところがある。日本に現存する多くの城址には、既に屋敷も天主閣もなく、城割(平面図)も設計図も残らず、石垣の一部だけが残っていたりする。

再建ブームの天主閣と異なり、石垣はいかにも「地味」だ。しかし、そこには「オリジナル性」がある。特に、近世的な城が作り始められた1570年頃の石垣には、多くの野趣が残っている。その巨大な好例を岡山城に見た。

006d14e6.jpg野面積み。

実は、野面積み(のづらづみ)で有名とされるのは、浜松城とか高知城、和歌山城といわれ、岡山城の名前は出てこない。しかし、この岡山城の石垣ほど、ワイルドな姿を残しているところはないのではないだろうか。何しろ、野面積みは、ごく初期の築城法で、ようするに形の整わない石をランダムに積み上げていく方法である。悪くいえば、でたらめ。石をきちんと切り取って隙間無く組み上げた場合に比べ、敵がよじ登りやすいのが欠点の一つと言われるが、岡山城の石垣は、登ると、ぼろぼろと石が崩れるようになっている。なにしろ「落石注意」と警告の立て札がある。

では、なぜ、これだけの野面積みが世間に有名ではないかというと、二つの理由があるのではないだろうか。

一つは、岡山城の構造上、石垣の上に天主閣が乗っているのではないこと。

普通は、石垣を富士山型に積んで、その上に木造多層階の戦闘用の建物を建てる。石垣の高さと建造物の高さの合計が天主閣の高さになり、遠くからでも威容を見ることができる。

しかし、岡山城の場合は、かなり広い面積の平面を得るために石垣を組み、その上部の平面の一角に天主閣が立っている。つまり、石垣と天主閣が別物なのである。だから、この城に外部から訪れると、自然に石垣を見ることなく天守閣の前に到達してしまうのである。

次の理由も、似たようなものだが、この豪快な石垣は、天守閣の裏側の目に付きにくい場所にあるわけだ。

006d14e6.jpgたまたま、岡山県立美術館に国吉康雄の絵画を観にいってから足を伸ばしたため、城を裏側から攻略することになったわけだ。攻略と言っても実際には、道に迷ったわけだ。そのため、城の裏側から一周することになり、この豪快な石垣にめぐりあったわけだ。

まあ、ぼろぼろと小石が崩れながら、さらに石垣に大木の切り株まで食い込んだ異形のまま500年以上経過しているのだから大したものである。信玄が言った「人は石垣」とは、まったく意味の異なるこの姿。

石垣の前に立てば、宇喜多秀家、小早川秀秋といった歴史に残る運命的な有名人と同じ物を見ているというワープ空間を感じるのである。感じるだけで十分だ。行きたいわけじゃない。

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運命に弄ばれた岡山城

2008-07-03 00:00:03 | The 城
006d14e6.jpg岡山城天主閣は第二次大戦末期、昭和20年に空襲で焼失し、現在は鉄筋コンクリート造りエレベーター付きで再建されている。戦争で焼失したのは名古屋城、広島城などが有名だが、この岡山城は、その由来からして、かなり残念度が高いと思える。

無くなってしまったオリジナルの天守閣は戦国時代の作で宇喜多秀家の築城。1597年頃である。仮に現存していれば、当時の築城法がしのばれたはずで、日本に現存する12天主閣よりも「最重要天主閣の座」を得ていただろうと思われる。

まず、天主閣の色が黒い。別名「烏城」と呼ばれている。カラスである。ものの本には「色が黒いからカラス」と簡単に説明されているが、実際には、この城の形は正面から見て横長になっている。薄型テレビとは言い過ぎだが、一見、大きく見える。羽根を広げたカラスの姿に似ているのだろう。戦国時代の築城ということであれば、敵を脅かすための一つの意匠であったのだろうか。

そして、この城の歴史を遡れば、度々、城主が激動していることがわかった。まず、宇喜多秀家。この宇喜多家というのが可哀相な運命で、もともと備中の小大名だったのだが、毛利と織田という両雄に挟まれて、結局、豊臣秀吉率いる織田勢に加担。秀吉が備中高松城を水攻めして、一方、本能寺の変があって、日本史最大のショータイムの時に大活躍する。秀家の秀の字は秀吉から拝領。

その結果、秀家は若くして、備中・美作両国五十数万石の大大名になり、岡山城を整備する一方、前田家から豪姫を妻として迎える。

006d14e6.jpgところが、宇喜多秀家の運命は、関が原の戦いで一気に崩れ去る。西軍の主要人物として出陣。奮戦するも、小早川秀秋の裏切りで、一気に敗北。山中に潜み、放浪の末、やっとの思いで、鹿児島の島津家にたどり着くも、「家康による成敗」を恐れた島津家は、秀家親子を徳川側に引き渡してしまう(この時、島津が突っ張れば、日本の歴史自体がまったく異なっているのだが)。

岡山城を引き継いだのは、皮肉なことに裏切った小早川秀秋。秀秋の秀の字は秀吉から拝領したのにだ。しかし、祟りなのかノイローゼになったのか、この秀秋は精神の病で早死にする。そして、次なる城主が池田家である。特に、江戸時代を代表する名君の一人と言われたのが、池田光政である。そして、光政は徳川家との関係を深めようとしたのだろうか千姫の娘である勝姫を正室にしている。千姫はお市の方の孫であり、徳川秀忠の娘。お市の方は、娘である浅井三姉妹に「浅井の血を絶やさないように」と事実上の遺言を伝えていたのだから、歴史には恐ろしい真実を感じることもある。

一方、捕えられた宇喜多秀家だが、前田家による家康に対する説得工作の末、死罪を免れ、二人の男児とともに八丈島に流刑になる。そして妻である豪姫は前田家に戻る。考えてみれば、秀家がそのまま娑婆にいたなら、大坂の陣で、間違いなく戦死したはずだ。

八丈島では、宇喜多親子はそれなりの尊敬を受け、生活していたようで、こども二人はそれぞれに現在まで続く家系をつないでいるそうだ。ただし、衣食は粗末で、「一生に一度でも腹いっぱい白米を食べてみたい」と便りに書いているそうだが、当時としては異例の長寿に恵まれ、戦国時代の登場人物の誰よりも後、83歳(1572~1655)で亡くなる。

白米を腹いっぱい食べていたら、長生きできなかっただろう。粗食の勧めだ。


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麻布学(4)鳥居坂教会のルーツ

2008-07-02 06:45:16 | 歴史
今年の「麻布学」についての港区市民大学全6回の5回目。4回目と6回目は所用で欠席。つまり最後なのだが、個人的には最も期待していた回である。

実は、数年前から「赤い靴はいてた女の子、岩崎きみちゃん」について、その実在性と欠落している歴史について追いかけていた。わずか9歳で亡くなった「きみちゃん」の終焉の地が、この鳥居坂教会の孤児院である「永坂孤女院」であったこと。彼女の一時的養父母だったメソジスト派の宣教師ヒューエット牧師。そして今、青山墓地の鳥居坂教会の共同墓地に名を刻んでいること。いずれにしても、すべての秘められた謎は、この鳥居坂教会、そして関連する東洋英和女学院のルーツと深く関連があると考えられるのである。講師は、この東洋英和の伊勢紀美子先生。インサイダーである。

講義をまとめる前に、メソジストについて、以前、調べていた内容と若干異なっていると感じた部分がある。大勢に影響がある話ではないが、以前の調査では、メソジストはカナダ、アメリカ北西部を布教の中心にしていたものの、三派に分裂、その後、北米大陸ではさらに多くの分派活動があり、それぞれ対立構造にあったものの、日本では、かろうじて分裂を免れていたというような状況だったと思うが、それについては触れられなかった。(話が複雑すぎるからだろうか)

一応、簡単に1824年にカナダ・メソジスト監督教会が米国から分離したところから始まる。つまり、日本に来たメソジストの始まりは米国ではなくカナダだったということ。それによる特殊性を考慮しなければならない、ということらしい。つまり、日本進出の後発性とカナダの特殊事情(封建的)ということだそうだ。

まず、日本進出の後発性だが、すでに他の派が各地でキリスト教の布教を進めていた後から割り込もうというのだから、窮屈だった。切支丹禁制の高札が撤去されたのは、岩倉使節団の結果の一つだが、この1873年から布教を開始しようとしたが、ビジネスと同じで、既に出遅れである。他派はフライングでどんどん前にいた。結果として、進出しようとしたのが、北海道、東京、長野、北陸、そして静岡だそうだ。北海道はこれからの開拓地であり、東京は人口の集まる首都。そして長野は善光寺、北陸は永平寺という仏教心の強いエリアで他派が回避していた地区。では、静岡は何?ということには、裏日本史があった。

静岡には、明治になったころ、徳川幕府関連の幕府官僚たちが身を寄せていた。大将の慶喜は「洋風かぶれ」だったが、官僚たちは、結構、幕府再興を狙っていたらしいのだ。そのため、まずは、外国語の習得が重要と、外国人教師を招いて英会話に励んでいたらしいのだ。そこに目をつけたのが、日本における布教の父、D・マグドナルド氏。静岡に英語学校兼教会を建てる。そして、10年が経ち、もはや幕府再興など雲散霧消。やっと東京・麻布周辺の土地を確保し、首都攻略を始める。

当時は、「布教と教育と福祉」というのがメソジストの三本の柱だったそうで、それぞれ「鳥居坂教会」「東洋英和」「孤児院」というのが対応していたそうだ。そこへ来日していたのが、宣教師ということで、特にカナダ出身の女性宣教師が多かったそうだ。それも20歳代の独身女性。というのもわけがあって、当時、カナダはまだヴィクトリア朝の傘下で、まったくの古い体制で、既婚女性は働いてはいけないことになっていた。そのため、独身女性の働き場所としては、宣教師というのは一般的には魅力的な高給だったそうだ。

当時の条件は高学歴、かつ高教養で、家政学、保健学、芸術、語学、特殊技能などに長け、かつキリスト教に熱心で、どんな場所でも嫌といわずに働かなければならなかったそうだ。3年の任期の途中で辞めるというと、出張旅費や手当ての多くが没収されたそうだ。蟹工船みたいな話だ。そして、今では、カナダ国内で「差別問題」と言われているのが、当時の布教活動で、特に日本には、教会内の「Aクラスの人材」を派遣していたのに対し、海外からカナダに移民で入ってくる人たち向けには「Bクラスの人材」を、そして先住民族の布教には「Cクラスの人材」を使っていて、このCクラスの人たちが、先住民のこどもたちを無理矢理に親から引き離し、教会に住み込ませて洗脳したりしたそうだ。

この宣教師のランクは給料格差にもなっていて、AクラスとCクラスでは1.5倍の給与格差があったそうだ。まあ、ビジネスの世界でも新規開発には優秀な人材を用いるのが普通だから、あまり違和感はないが、ありがちな話だ。


006d14e6.jpgそして、話を一気に飛ばして、「きみちゃん」のいた永坂孤女院の件だが、1894年に開設されている。木造二階建て。その後、1908年に、この建物の1階が日曜学校になり、2階が孤女院になっている。というと2階に詰め込んだように感じるが、1904年に周辺に二ケ所の新設孤児院を造っているので、それなりの計画の一環だったのだろう。そして、講義の時に配られたペーパーには、1908年に撮影された、孤女院とその孤児たち一同の写真が写っていた。


ところが、・・

一方、「きみちゃん」の短い人生を辿ると、1902年7月15日に静岡で生まれ、その後、函館でヒューレット宣教師夫妻の養女になり、夫妻が米国に帰還する際、何らかの理由で日本に残り、この永坂孤女院に預けられたのが、1908年と言われている。そして3年後、1911年9月15日、9歳で他界。

ということは、当日、配られたペーパーの中の写真のコピーには「きみちゃん」が写っている可能性もあるわけだ。写真の服装からすると、春か秋と思われる。

そして、これらの資料類のほとんどは、「鳥居坂教会百年史」という書籍の中にあるそうなのだが、既にその書物が、「国会図書館」または「都立中央図書館」に存在していることを突き止めているのである。


ところで、鳥居坂教会の関連の学校と言うと、東洋英和以外にも東京女子大や麻布学園がある。特に、近来、東大進学御三家として有名な麻布中高学校。男子校である。麻布学園は、ある理由で、この鳥居坂系のグループと袂を分かち独立したそうである。「主義の違い?」

その件について、伊勢先生は、「学内でタブーとされている理由であるものの、地元と共生するためには克服すべき問題なので、あえて触れてみた」と言われていた。「問題のような性格のもの」とも言われていた。

しかし、「問題のような性格のもの、に触れてみた」と言われても、部外者の私には、何のことやら、さっぱりわからないのである。「地元との共生」と言われても抽象的過ぎる。「身分の低い人(入学時寄付金の少ない人)は女子大に入れない」という時代があったのだろうか。それなら「偏差値130以下は麻布中学に入れない」というのと同じようなものじゃないかとも思うし、・・・

やはり、とりあえず「鳥居坂教会百年史」を紐解かなければならないのかな。

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