「蟹工船」と現代

2008-07-07 00:00:58 | 書評
最近、流行の言葉に「無敵の人」というのがある。スーパーマンではない。アキバ無差別殺人のあと、事実上のネット検閲制度が始まったにもかかわらず、新たに犯行予告を書き込むものが数百件で、そのうち何人もが検挙されている。普通、犯罪者は捕まらないだろうことを見込んで犯行に及ぶのだが、彼らはいとも簡単に捕まる。



多くは、無職で一人暮らし、友達もいなければ財産もなく、ようするに警察に捕まっても”失うものがない”人であることが多いそうだ。ある意味、こういう人が危険な事件を起こしやすいのは明らかだろう。

一方、その「無敵の人」の一歩手前が、いわゆる「カニコウ」。低所得、長時間労働、低福祉・・。多くは、派遣社員の中に多い、とされる。

そして、現在、突如売れ始めた小説がある。「蟹工船」。著者は小林多喜二。北海道拓殖銀行をやめ、共産党系作家としてプロレタリアート小説を書き、1933年、特高警察になぐり殺される。すでに、著作権は失効している。売れた文庫本の収益はすべて新潮社のものだ。

この小説を紹介する前に、蟹工船の解説だが、オホーツク海で蟹を捕り、船の上で加工し、殻を割って蟹の足を紙に包んで缶詰に詰める。時々母船が回収に回ってくるだけで、長い期間、海上生活になる。東京丸の内の大手企業が蟹工船のオーナーで、数百人乗り。函館を基点としていた。製品は高額で輸出していたようで、本社の代理人として「監督」というのが乗っていて、作業の指示をしていた。

船の性格上、「漁船であり、加工工場でもあり」、本当は船員を保護する法律と工場労働者を保護する法律のどちらをも適用しなければならないのだが、「漁船でもなければ、工場でもない」と言いぬけていて、どちらの法律も適用しないで違法労働が行われていた、と書かれている。

乗っていた蟹工員は、鉱山から逃げ出した者や、ワケアリの人、食えなくなった農民漁民、事情を知らずに高給(実は低給)にだまされたアルバイト学生など。もちろん鉱山と違ってオホーツク海では、一航海終わらないと逃げ出すわけにもいかない。

病死すれば、海に捨てられ、反抗したり作業をさぼれば、殴られたり、ヤキを入れられたり。蟹捕り船(川崎船)が流されると、乗組員より船の方が大事ということになる。監督は本社の指示で、拳銃を持ち歩いて工員を威嚇する。そして、毎日の奴隷的作業(蟹の殻剥き)は延々と続く。

そして、小説では、そういう極限状況の中で、労働争議を起こそうという話になるのだが、一旦成功したかと思われるサボタージュ行為も、どこからともなくやってきた駆逐艦に指導者以下数名があえなく引き渡されてしまう、ということになり、産軍共同体国家の本質が見えてくる、ということになる。

一方、あれだけ威張っていた監督もサボタージュ発生の責任であっさりクビになるわけだ。


それで、現代の自動車塗装工場の派遣社員は蟹工員かと言うと、結構、微妙な感じが漂う。

個人的には、「自動車塗装工場の派遣社員=蟹工員である」と言っていいような気がしている。ただし、少し異質感があるのは、蟹工は閉鎖空間で、逃げようにも逃げられないというシチュエーションだが、塗装工場の場合は辞めて転職したければ、なんとかなるというか、探せばもう少しましなところはありそうなものである。80年前は労使対決型であったのに対し、現代は、労働搾取されるほうに、「もう、この境遇でもしかたない」という諦め感が漂うのである。

さらに、80年前は、カニコウの逃げ込む先に、共産主義や労働組合、地下活動家とかそういう種類の進路があったのだろうが、現代には「ソ連」もなければ、組合は「組合組織内の階級闘争に熱心」。地下にもぐるのは特定宗教家。そんな時代だから「無敵の人」になってしまうのだろうと、思う。


ところで、文庫本には、「蟹工船」の他、「党生活者」がカップリングされている。こちらは、舞台を東京都内に設定。某電線工場の左傾化を狙う、非合法の共産党員の活動を描いたもので、作者の意図とは異なるだろうが、スパイ小説のように、「追うものと逃げるもの」という政治冒険小説としても読める。仲間の誰かが捕まると、とりあえず3日間、拷問に耐え、その間に同志はアジトを変えるという「三日間ルール」があるのに、あっさり口を割る卑怯者が登場するのだが、「太田」という名前を与えられていた。

本小説、多くは実話に基づくところもあるのだろうが、ほとんどの登場人物や場所はSとかAとか伏字なのに太田だけが「太田」だ。

「おおた」が「太田」の心配をするのも、まったく変なものだが、この名前、小説やドラマでは、犯罪者や卑怯者といった小悪人によく使われている。刑事として登場したのに、実は殺人犯だったとか、悪徳市長とか反社会的弁護士とかだ。

小林多喜二は、北海道拓殖銀行の行員だった時、イジメられた支店長の名前が、太田だったのだろうか。