最澄と空海

2008-07-13 00:00:46 | 書評
色々な縁で、古い本や雑誌の在庫があり、少しずつ片付けている(つまり資源化)。読まないものもあるし、目を通すものもある。最近、読んだのが、最澄と空海のことについて書かれたNHKのテキスト。平成元年6月~7月に放送されたもので、最澄については、瀬戸内寂聴さん、空海については梅原猛さん。



もとより、高級宗教のことや宗教的なことはよくわかっていない。以前、カルロス・カスタネダの本を大量に読んで、インディアンの原始宗教を勉強したのだが、よくわからないまま、終わったことがある。ハッパを体験しなかったからわからなかったのかもしれない。天台宗や真言宗といった密教のことは1%もわからない。それでも一応、家系はそういう密教的な宗旨に属している。

さて、瀬戸内さんは、本職なのである。それも大物。一方、梅原さんは、宗教家ではない。あえていえば歴史家に近いのだろうか。さらに文化史。ところが、この二人のアプローチは、その逆で、瀬戸内さんは、最澄を宗教家としてではなく、一人の気の弱い、しかし必然の中で踊らされた歴史のピエロとして解説している。

一方、梅原さんは、空海を、その歴史的人物としての面より宗教家として、いや哲学者として表現している。まあ、人間として、宗教家としての完成度としては二人とも空海の方を上に見ているのだから、二人を対として見るのが傍観者的な面白さなのかもしれない。とりあえず、個人的な感想として考えてみる。


空海と最澄。この二人の思想家を並べるなら、やはり804年7月に九州を発した遣唐使節のことからだろう。当時の遣唐使は、コロンブスの航海のように、不確実性の世界。従来は対馬から朝鮮半島方面に北上し、渤海湾の中を横断していたコースが、新羅と日本の国交が険悪化されたため、南コースに変わっていた。五島列島で一旦、英気を養い、そこから一気に中国を目指すコースに変わったそうだ(英気を満たすかわりに精気を満たした男もいたらしい)。

そのため、沈没率が上昇。野心家以外はなんだかんだと指名されないように逃げまわっていたそうだ(遣唐使廃止の本当の理由だろうか)。そして、彼らを加えた遣唐使は4隻に分乗。空海は第一隻、最澄は第二隻。そして3隻目と4隻目は海に消えた。空海の乗った第一隻も暴風雨で針路を失って、かろうじて中国に漂着。まともだったのは最澄の船だけ。

ところで、この時、最澄は37歳。時の桓武天皇のお気に入りになっていて、新進気鋭。天皇から「私の健康も、問題だらけだ。聞くところによれば中国では、密教というあたらしい宗教が現れて、難病を治してくれるらしい。さっと行ってさっと覚えてきて祈祷してくれないか」という乗りだったようだ。一方、空海は30歳。この空海だが、仏教の勉強をしていたのではなく、中国の思想(儒教など)を勉強しているうちに、山林で修行をするようになる。そして、どこかの山で、空と海だけみているうちに、「自分なりの悟り」に到達したという話である。しかし空海は中央政府では無名。その無名の天才がどうやって遣唐使になったのか、はっきりしないそうだ。

結局、速攻で密教を持ち帰る任務の最澄に対し、空海は20年間勉強することを条件に船に乗っていた。キャリアとノンキャリみたいなものだ。

そして、最澄は天台山に上り、慣れぬ外国語に苦労しながら、1年で密教を速攻習得する。ごく一部のテキストを持ち帰る。まあ「密教入門」みたいな本だったのではないだろうか。そして、翌805年に帰国し、桓武天皇の重病を平癒祈願するが、効果があったのか無かったのか、翌806年、桓武天皇崩御。そして平城天皇になるのだが、この天皇は、慎重居士だった。そして、最澄にとって不幸は、20年間帰ってこないはずの空海が2年で帰ってくる。空海側の事情は、当時、中国・インド・チベットあたりでもっとも権威のある僧の弟子になっていたのだが、あっという間に弟子のトップになる。そして、2年でその僧が亡くなるや、「もう、教わることはない」と夜逃げのように逃げてきた。日本では、「2年で変えるのは契約違反だ。渡航費を返せ」、と言ったかどうか知らないが、早帰りを許してもらうために時間が必要だった。

そして、空海は、時の天皇に食い込むことに長けていて、色々と手品のようなワザを見せたらしい。例えば、温泉を見つけるのがうまい、とか余技に長けていたようだ。そして806年、最澄は空海を知ることになり、自分の浅学を恥じる。そこで、7歳の年上を恥ずかしくも無く、経典を貸してくれないか、と空海に頼んだりする。最初の頃は、無料だったらしい。その後、最澄は次々に空海から本を借り続け、対価の替りに、弟子をした働きとして空海に貸したりする。

そして、要求がエスカレートして、空海が切れる。もっとも重要とされる「理趣釈教」を貸してくれと言われ、「本など読んでも仏教はわからない。行に励まない人間には経典は貸さない!」と貸与拒否。この後、最澄は落ち目で失意の生活を送り54歳で没。空海は宮廷に食い込んで勢力を拡大し、60歳で没なのだが、今でも高野山の山中で生きているという説もある。


実は、来年の春には、真言宗のある寺院を訪れようとも思っているのだが、空海のこと、もっと研究しておくことにする。