野面積みの美

2008-07-04 00:00:31 | The 城
006d14e6.jpg「人は石垣、人は城」とは、武田信玄の兵書に書かれたコトバで、「城など作らなくても人間が信頼関係の元に結束すれば、それの方が堅固である」、という意味であり、実際に甲府には武田家の館はあったが、石垣をくみ上げた城郭や天主閣はなかった。

実際には、城があってもほとんどの大名は滅び、堅固な主従関係も狡猾な戦術によって崩されてしまう。いつの時代も、「勝利の方程式」はきままだ。

そして、信玄は「石垣」と軽く書いているが、この石垣というのも眺めれば眺めるだけ多様なのである。一つは、工学的観点からみて、堅固ということは技術の裏づけがいることと、城を築く「時間的余裕」、「財政的余裕」とうらはらの関係にある。

さらに、その築城された時代の歴史的必然性とか考えるところがある。日本に現存する多くの城址には、既に屋敷も天主閣もなく、城割(平面図)も設計図も残らず、石垣の一部だけが残っていたりする。

再建ブームの天主閣と異なり、石垣はいかにも「地味」だ。しかし、そこには「オリジナル性」がある。特に、近世的な城が作り始められた1570年頃の石垣には、多くの野趣が残っている。その巨大な好例を岡山城に見た。

006d14e6.jpg野面積み。

実は、野面積み(のづらづみ)で有名とされるのは、浜松城とか高知城、和歌山城といわれ、岡山城の名前は出てこない。しかし、この岡山城の石垣ほど、ワイルドな姿を残しているところはないのではないだろうか。何しろ、野面積みは、ごく初期の築城法で、ようするに形の整わない石をランダムに積み上げていく方法である。悪くいえば、でたらめ。石をきちんと切り取って隙間無く組み上げた場合に比べ、敵がよじ登りやすいのが欠点の一つと言われるが、岡山城の石垣は、登ると、ぼろぼろと石が崩れるようになっている。なにしろ「落石注意」と警告の立て札がある。

では、なぜ、これだけの野面積みが世間に有名ではないかというと、二つの理由があるのではないだろうか。

一つは、岡山城の構造上、石垣の上に天主閣が乗っているのではないこと。

普通は、石垣を富士山型に積んで、その上に木造多層階の戦闘用の建物を建てる。石垣の高さと建造物の高さの合計が天主閣の高さになり、遠くからでも威容を見ることができる。

しかし、岡山城の場合は、かなり広い面積の平面を得るために石垣を組み、その上部の平面の一角に天主閣が立っている。つまり、石垣と天主閣が別物なのである。だから、この城に外部から訪れると、自然に石垣を見ることなく天守閣の前に到達してしまうのである。

次の理由も、似たようなものだが、この豪快な石垣は、天守閣の裏側の目に付きにくい場所にあるわけだ。

006d14e6.jpgたまたま、岡山県立美術館に国吉康雄の絵画を観にいってから足を伸ばしたため、城を裏側から攻略することになったわけだ。攻略と言っても実際には、道に迷ったわけだ。そのため、城の裏側から一周することになり、この豪快な石垣にめぐりあったわけだ。

まあ、ぼろぼろと小石が崩れながら、さらに石垣に大木の切り株まで食い込んだ異形のまま500年以上経過しているのだから大したものである。信玄が言った「人は石垣」とは、まったく意味の異なるこの姿。

石垣の前に立てば、宇喜多秀家、小早川秀秋といった歴史に残る運命的な有名人と同じ物を見ているというワープ空間を感じるのである。感じるだけで十分だ。行きたいわけじゃない。

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