徳川十代将軍、家治公の評判

2008-07-26 00:00:53 | しょうぎ
将棋の世界で、徳川家治公は、超強力なパトロンとして有名である。元々将棋所は寺社奉行の管轄で、家元は幕府から石高を定められていた。いわば公務員。明治になっても、旗本のようにいきなりクビになったのではなく、ほんのしばらくは国庫で面倒を見てもらえる時期があった。その公務員の総元締めの家治将軍の最大の趣味が「将棋」だった。 ただし、将棋はあくまでもボードゲームである。実際の治世とは異なる。実際の政治は、勝った負けたというわけにはいかず、将棋よりは難しいだろう。



後世の歴史研究者の通説では、この家治公については、「治世を省みず、執政は田沼意次に任せっぱなしにして、趣味の将棋にのめりこんでいた」というのが多いそうだ。実際、高校の日本史の教師は、校内でも研究熱心と有名だったのだが、「天守閣から江戸の町を見下ろし、町人を動きを将棋盤の駒に見立て楽しんでいた」というように教えていた。

実際には、江戸城の天守閣は江戸初期、1657年代に明暦の大火で焼失したまま現在に至っている。一応、城郭内中央には櫓が立っていたのだが、将軍が毎日、梯子を登っていたはずはないわけだ。

ところが、現在、特に堺屋太一氏にようなエコノミスト(小説家?)による江戸経済の再認識運動の結果、田沼意次のような開放経済に対して評価が見直されているわけだ。 現在の日本でも、緊縮派、増税派、上げ潮派とか色々のスタイルがあるが、対外閉鎖主義のため、1600年代の終わりからの経済底上げ時に、資源不足、人口減少、財政悪化に陥り、吉宗の時に、財政問題を手がけ、また資源リサイクル社会に誘導したあとの家治の時代だった。今度は、国土再開発のために田沼意次のような人物が必要だったのだろうと思われる。 ところが、再評価された田沼を、好き勝手に泳がせていた家治公については、いまだ評価が上がったということではなさそうである。

偉大な祖父、吉宗を凌駕したのは将棋の腕前だけだったのかもしれない。



家治公は、将棋の本まで出版していて、「象棋巧格(異字使用)」は、国立公文書館に所蔵されている。売店で記念絵葉書を購入することもできるが、他のハガキとのセット売りのみである。図は47手詰めである。やや旦那芸的ではあるが、オマエコソ、と権威筋から怒られそうなので批判しない。



さて、7月12日出題作の解答。 ▲1八飛 △同玉 ▲2九銀 △1九玉 ▲3八銀 △1八玉 ▲2七銀 △1七玉 ▲1九飛まで9手詰。 1九の角が邪魔ゴマになっていることを見抜けば、簡単か。 捨駒ではなく、相手玉に取らせて駒を減らすという方法は、比較的好きなパターンである。



今週の問題も、軽作。 こういう問題は、持ち駒や盤上の駒を足したり引いたり、色々と変型するのだが、どの図を完成作とするのか、悩ましい。 とりあえず、盤の左側で作ったのは、作品の発展途上の気持ちから。完成作になると、左右反転して右側に配置するのが、この道の作法らしい。 わかった、と思われた方は、コメント欄に、最終手と手数をいただければ、正誤判断。