魅惑の17-19世紀フランス絵画展

2005-05-04 20:37:38 | 美術館・博物館・工芸品
d49232bd.jpg展覧会のタイトルが、ちょっとリアリズム過ぎて、おもむきが感じられないのだが、フランス・モンペリエのファーブル美術館の修繕工事期間の出稼ぎにつき、美術館ごと大量に来日中である。


ところで、今、日本がもっとも付き合うべき国は、フランスじゃあないかって、考えている。ちょっとまとめて考えていることもあって、別の日に、核融合炉のこととか、次世代超高速機の共同研究のこととか、ダルフールやアフリカ諸国のフランス化のこととかまとめようかなと思っている。少なくても、フランスにとってトルコより日本の方が好きだ、というくらいにはしなければならないのじゃないかな。

にもかかわらず、歴史上、フランスと日本が親しかった時期はあまり無い。ゼロに近い。幕末にやってきた武器商人。日清戦争のあとに口を出した三国干渉。やっかいな国だ。映画をみてもよくわからない。サルトル?トルシエ?イザベル・アジャーニ。一方、フランスから見ると、ボジョレヌーボーを根こそぎ買っていく不思議な国。エアバスA380は一機も買ってくれない・・遠く離れているのだから、気兼ねなく本音でしゃべれる国なのに・・


美術館に入ろう。新宿・損保ジャパン東郷青児美術館42階。高層ビル街の最初のビル。

パリは芸術の都というのだが、案外フランス生まれの芸術家はテクニシャンだ。クールベ・ミレー・ルノアール・セザンヌ。美術の世界では、「フランスの二つの功績」というのがあるのだろうと思っている。功績の一は、南フランスの移ろいげな太陽光線。多くの画家がこの光と格闘する。功績の二は、パリの先進性。技法的実験は、パリに持ち込まれて初めて世界性を得る。光のコントロール手法が18世紀から19世紀にかけての西洋美術の基調として流れていたのだと思っている。

そして、この展覧会は17世紀の宗教画の中にどうやって光が取り込まれていき、最終的に印象派まで到達するのかということが、かいつまんでわかるようになっている。もっともビッグネームはいない(ビッグネームは、常設されているはずだったから)。

そして、どの絵画も、やはりフランス人らしく、いじわるだ。一目で視線を引きつける。そして次に移ろうと思うと、また細部にわたってよく見えてくる。見れば見るほどキャンバスの隅まで味がある。
ジャン=バティスト・グルーズの<両手を組合わせた少女>は1780年頃の作品といわれる。ちょうどフランスが革命を起こして、封建主義から思想的な脱却にもがき苦しんでいた時期である。近代の扉を開いた1枚。

フランスの話はこれくらいにして、美術館で気がついたことがいくつか。特別展示室にはいつも3枚。正面にゴッホの、<ひまわり>。左にセザンヌの<りんごとナプキン>。右にゴーギャンの<アリスカンの並木路>なのだが、ひまわりが無い。もしや盗難か!と思って張り紙を読むと、「<ひまわり>は作品状態の検査及び調整のため展示されていません。」とある。本当だろうか?

まさかとは思うが、53億円というバブル価格で購入したこの絵をどこかのオークション会場に持ち込もうというのでは・・あるいは、なんでも鑑定団の看板鑑定士、中島誠之助に「いい仕事してますねえ。これが本物ならよかったのにねえ。」とか言わせようとしているのか。それに、修復って??失敗厳禁だよ。

そして、この保険会社のビルを出て、ふとビル全体を見上げる、下の方にいくつもの外壁のひび割れと修理個所が見える。上のほうは見えないのだが普通は上部の方がゆがみが大きくなるのでクラックが大きいはずだ。大地震の際に外壁は耐えられるのだろうか。保険会社だけに付保には手抜かり無いだろうが、保険金の大半を自分のビルの修理費に使ってしまったら、具合悪いのではないだろうか?

江戸城には謎が多いのだ(2)

2005-05-04 15:15:53 | The 城
561b5b42.jpg江戸城郭はきわめて巨大だ。南西方面は今の外堀通り(新橋と四谷のライン)、北側はお茶の水駅のそばの巨大な水堀までだ。実際には、この城の攻防戦は起こらなかったのだが、戦国時代の鉄砲と刀と言う攻撃戦術では難攻不落であっただろう。その城郭のシンボルとなるべき天守閣は、1657年の明暦の大火(振袖火事)で焼失して以来、再建されなかった。それはなぜか?

まず、消失した天守閣は敷地の最北部にあるのだが、徳川家康が1590年に現在の本丸中央付近に新築した天守閣を三大将軍家光が建て直したものとされる。1629年から改造をはじめ1636年に完成。その前に、二代将軍秀忠が少し北側に移転したと言われる。徐々に本丸機能が拡大し、その都度天守閣が北に移動したわけだ。「官庁の肥大化」現象は徳川時代からなのだ。

家康の使った部材は秀忠の行った天守閣移転時には大部分転用されたと思われるが、家光は全部新品にとりかえたそうだ。さらに、これには余分な話があって、仙台の伊達家が自分の築城の材料として解体された江戸城の廃材を受領している。そして仙台まで持って行ったのだが、実際には使っていないのだ。歴史には謎が多い。

なかなか、資料も揃わず、よくわからないのだが、そもそも、太田道灌の作った初代江戸城自体、家康が江戸に入った時には、あったのかなかったのか不明。そして、江戸城天守閣の大きさもアバウトではあるが、図面などから考えると、石垣から上の高さが約57メートル、金シャチが3メートルで合計60メートルだったと想像される。そして床面積は大坂城の2倍と言われているのだが、それは大きすぎるような気もする。石垣の高さは23メートルあったとされるのだが、どうなのだろう。

家光の城造りの基本コンセプトは「巨大さ」だったらしい。豊臣家のいた大坂城より大きくし、高さは、かつてあった安土城より高くということだったらしい。ただし、家光の時代には、既に豊臣家は滅亡しているのだが、関が原の直後、大坂の陣までの間に、名古屋、姫路、熊本などの大城ができているのである。これは、大坂城と同じくらいの城をいくつか作って、「豊臣家はたいしたことはない」と思わせるためであったそうだ。実際に城を一つ一つ見比べるのは、「お庭番」位のものだろうが、こうして大城時代になっていたのだ。そのため、江戸城はそれらより大きなものにしないと格好がつかないことになる。段々立派になっていった3本の本四架橋のような話だ。さらに横幅が広くがっしりとしたピラミッド型の名古屋城・姫路城と、5階建ての上に、二種類の様式の茶室仕様の楼閣を重ねたタワー型の安土城より高くしようとすると、かなり1階の床面積を大きくしなければならない。結果として、「富士山が二つになった」と江戸っ子が表現するような五層六階の巨大な建造物になった。

一方、調べていて、涙が出るほど嬉しかったのは、外構工事や石垣工事を担当したのが、あの城作りの名人である藤堂高虎であることがわかったことだ。宇和島城、今治城などを作った城作りのスペシャリストだ。言われてみれば、九段下から日本武道館に入るところの造りなんか、かなり感動的ではないか。とすれば、彼の名声は相当のものだったのだろう。ゴルフの難コースの設計で有名なピート・ダイ氏の著書を読むと、日々難しい設計を考えているとのことだから、藤堂高虎もそうだったのだろうか。虎は死んでも城を残したわけだ。

さて、家光が完成させた大天守閣が焼失したのは、築21年後の1657年であり、同時に本丸や西の丸も焼失。早い話が全部燃えたわけだ。そうするとまずは本丸や中奥、大奥を作らなければならない。そして当時の将軍はすでに家光の子である4代家綱であるが、当時まだ16歳で実権は叔父にあたる保科正行(3代家光の弟)が取り仕切っていた。

ここから、大概の著書では、天守閣の再現のため、天主台の工事までは終わったものの、明暦の火事のダメージが大きく、江戸の町の再建に多額の費用がかかるので、保科正之は天守閣工事を中止したと書かれている。また、天下泰平でもう戦闘用の天守閣の時代ではないと考えられたとか付け加えられる。

しかし、そうなのだろうか。相変わらず、幕府は各藩の動静には目を配っていて、城の改築など無許可で行えば、よくて殿様の切腹、間違えばお家断絶であっただろう。また、本格的な幕府の財政危機はもう少し後になってからであり、違和感がある。

実は、どこにも書かれていない(と思われる)のだが、正午過ぎに、この江戸城天主台の周りをウロウロしていると、気付いたことがある。明暦の大火の後の本丸、中奥(政務エリア)、大奥の再建図のことである。大火前は、南側の大手門から、北に向って、まっすぐ本丸大広間、いくつかの部屋、中奥、大奥と直線状に並び、大奥の北側が天守閣ということになっていたわけだ。普通の造りだろう。しかし、大火後の設計図では本丸、中奥の規模が拡大したため、大奥の主要エリアは天守台に向って、右側(西側)の空地エリアに移動したのだ(もちろん通路でつながっている)。ということを現代の空地の中に思い描いたところ、空想上の巨大天守閣から伸びた日影は、午後の太陽を大奥から奪ってしまうことに気がついたのだ。日照権問題だ。

ここで、考えを整理してみれば、将軍はまだ若い家綱。補佐役は叔父の保科正之ではあるが、保科としては、中奥政務エリアを支配することはできても、大奥は煙たい存在であったはず。おそらく大奥筋からの天守閣建設反対の声を無視しにくかったのではないだろうか。こうして、大奥のわがままは徐々に拡大し、やがて訪れた保科正之の死、そして家綱の死により、急遽将軍となった5代綱吉とその母である桂昌院の時代に繋がっていくのである。

実は、この天守台にも不思議がある。よく紹介されるのは、天守台の高さは20メートル以上といわれるのだが、それほど高くはないように思える(もっとも徳川初期にはまだ和算は発展していないため、建物の高さを測定するのも一苦労していただろう)。また8代将軍吉宗が石垣を整備したとも言われ、石についた黒い煤は幕末の火災のものだと言われるが、石の色をみれば何種類かの火事の痕跡が読み取れ、さらにわからなくなる。合理的に考えるなら、何回か石の組み直しが行われたのだろうと推測できるが、特に吝嗇家の吉宗がそれをやったとすれば、目的は何だったのか見当がつかない。案外、普段ケチだったのは、天守閣を再生するためだったのではないかなどと、とんでもないことを想像するのである。彼の居城だった和歌山城天守閣は、小さいながら立派な城だ。

実は、現代の東京に、江戸城を再生しようと小さな声でささやいている人達がいるのだが、それはそれで、結構難しいだろうと思う。私見で言うなら、全国の杉の木を全部切り倒して高さ600メートルの木造電波搭を作るならば大賛成なのであるのだが・・

国共合作風は異夢同床か?

2005-05-03 15:17:10 | 市民A
067dd909.jpg中国には、概ね3つの政党がある、と考えてみる。共産党と国民党と民進党だ。そして、それぞれの主張は敵対的だが、今のところ、前の1つと後ろの2つは地理的に分離されているので、騒動にはなっていない。そして、共産党の本拠地である北京に国民党主席の連戦氏が訪れ、胡錦濤総書記と握手をし、雑談をし、一緒に中華料理を食べた。一方、民進党の陳水扁総統は、国共合作風による統一化にネガティブに反応している(民進党の主張はわかりやすい。民主主義でない政党はダメと言っているのだから)。今回の連戦北京入りは共産党からの招待とは言うものの、行くつもりがないなら招待されないというのが政治の常識だろうから、両者ともに事情があるのだろう。

では、共産党と国民党はそれぞれ何を考えたのか。

手がかりを探すために、かつて愛読した「毛主席語録」を開く。威勢のいいことばが氾濫している。
 すべての反動派はハリコの虎である。
 一部の階級が勝利し、一部の階級が消滅する。これが歴史だ。
 全世界は必ず人民のものである。すべての悪魔は残らず一掃されるだろう。
 人民の軍隊がなければ、人民のすべてではない。
など

しかし、国民党のことを直接的に表現している部分が少ないことに気がつく。一節に、蒋介石について書いてある。
 蒋介石は、人民からわずかな権利も必ず奪い、わずかな利益も必ず取上げる。・・・
 蒋介石はもう刀を研いでいる。従って、われわれも刀を研がねばならない。(1945.08.13)
考えれば、毛沢東語録が世に出たとき、既に国民党は台湾を征服してしまったので、国共合作のような面倒な話は書かなかったのだろう。

まあ、語録は置いて、あと10年先の中国は共産党の一党独裁なのだろうかということなのだが、まず難しいだろう。すなわち、既に原点の純粋共産主義からは、大きく逸脱して、現代中国はむしろ帝国主義的であるわけだ。例のイスラム教原理主義のような、真性共産主義者があらわれる時、少なくても共産党内部での対立は避けられないだろう。もちろん、もう一度天安門の前に10万人の大衆が集まれば民主的制度を導入しなければならないだろう。

連戦が考えているのは、その多党化時代に国民党勢力をメインランドで広げようということではないだろうか。そして、公選制度の上に乗って、再び国民党を中国第一党にして全中国を自分達の党派のものにしようと考えているのだろう。単なる勘だが、10年後の中国は、国民党が40%、民進党が30%、宗教政党が20%、共産党が10%程度になっているかもしれない。

一方、共産党側は民進党退治のために、国民党を支援しようとしているのだが、逆効果で、Taiwan Formosaでは陳水扁の人気が高くなるだけだろう。

では、両岸問題は平和的に解決されるのか、武力衝突に向うのだろうか?もっともあぶない時期は、これからメインランド内に国民党(民進党もそうだが)の組織をどんどん作りだした場合だろう。そして、それはメインランドの反共意識が高まることであり、その先に見えるのは緊張と混乱なのかもしれない。しかし、両岸ともグローバル経済に組み込まれた状態の今、統一的民主的国家にたどり着けるかどうかは世界的課題であると同時にリスクは残っている。さまざまな社会的課題のために自壊する危険だ。

最後に、今や歴史上から忘れられた存在の毛沢東語録から、この一節を紹介する。
 われわれは、決して傲慢な大国主義的な態度をとってはならない。思い上がってはならない。(1956.09.15)

ATS-S,ATS-P,ATC

2005-05-02 15:18:26 | 市民A
二日前に書いた「遠因二点」の末尾の方に、”もっと乗客ものんびりしよう”という主旨で、「東急線なんか2日に一度遅れている」と実感を書いたのだったが、少し引っかかりがあった。新聞を読んでいると事情が判ってきて、さらに調べてみると、大きく深い穴があった。

報道を見ていると、JR福知山線(通称宝塚線)は旧式のATSで、新型ATSに交換すべく計画があったが間に合わなかったという。さらに新幹線にも使われている”列車間距離に応じて速度が低下する”ATCは、京浜東北、山手線、東急線、東京メトロ、都営地下鉄で導入しているとのことだ。東急線がよく遅れるのにも理由があったわけだ。

そして、旧型ATSはATS-Sと言われ、基本的には、運転手に停止信号を送り、数秒間放置すると自動的に止まるのだが、手動ですぐに解除できるようになっている。運転士には、列車相互間の距離が不明(あるいは見えないかもしれない)なので、無視するのが一般的だ。全国のJRは大部分がこれだ。一方、私鉄の大部分は新型のATS-Pになっていて、スピードオーバーには自動的にブレーキがかかることになり、安全サイドに寄った考え方になっている。さらに、ATCは列車間の位置と速度により、後続車の速度を落とそうという設計で新幹線には当初から設置されている。

そして、なぜ、JR(主にATS-S)と私鉄(主にATS-P)で異なっているかという点だが、1967年に私鉄各社に対して運輸省が通達を出しているのだ。つまりこの時にダブルスタンダードになった。そして、1987年に国鉄は分割民営化するのだが、この時に民間企業となるJRにも私鉄基準であるATS-Pを強要したのだろうと思われるだろうが、事実は逆で、私鉄通達の方を取り下げてしまったのである。もちろん私鉄側は既に取り付けてあるものをとりはずすこともないため、今やルールのないダブルORトリプルスタンダードになっているのだ。

そして70年台にJRがATS-P方式にならなかったのは、例の「ATSのアラームのつど列車を停止させた”順法闘争”」と関係があるのだろうか?そこまでは、今はわからない。穴は深すぎる。

才女二人

2005-05-01 15:19:14 | 市民A
4cf6b3f9.jpg経団連会館で環境技術シンポジウムが開かれるので、参加してきた。何と450名も集まる。第一部が福島敦子キャスターのスピーチ。第二部が関係基幹産業の業界団体代表によるパネルディスカッション。コーディネーター(司会)はソフィアバンクの藤沢久美さんで、会場の外では、電力、鉄鋼等の企業団体によるパネル展示会が行われている。福島さん、藤沢さん、関係団体大勢のギャラの比率は5:1:0かな・・・

会場に着いたのがちょっと早かったので、展示場を一回りするが、あらかた知っている話が多く、各業界団体の派遣員は専門的な話を知らないのが多い。総務部か?要らないパンフレットを各ブース毎に押し付けられてしまう。これこそ、環境破壊行為だ。

実は、福島さんの話は、あまり面白くない。国連でワンダリ・マータイさんが「mottai-nai」の演説をしたのと同じような話で、「生活の中からムダを取り除く」というトヨタ自動車みたいな話だ。そうはならないから浪費が生まれてしまうのと、日本国内で言うなよってこと。だいたい米国や中国のようなところで生産や消費を行うことからしてエネルギー効率が悪いし、肉食は草食の7倍もエネルギーが必要というようなことは黙っている。一方、日本の最大の問題は「犬猫ペットブーム」ではないかと思っているのだが、その話題は出ない。集まっている聴衆はほとんどが民間人なのに、効率的なゴミ焼却場の話を聞いても何ともならない。視点がシロウト向き過ぎのような感じがした。

それより、福島さんは、喋る時に首を右に傾けたり、左に傾けたりする癖があるのだが、気になってしまう。第六頚椎あたりが具合悪いのだろうか?首と言う字は別に「夭」とも書いて、首を折る癖の人は「夭折」といって若く且つ惜しまれながら亡くなることがあると言われる(惜しまれず、単に若く死ぬだけだと「若死」といわれるだけだ)。

福島さんのスピーチが終わったあと、藤沢さんは、絶賛しながら、何度も何度も拍手をするように指示を出してくれた。コンサートホールみたいだ。

そして小休止の後、第二部のパネルディスカッションだが、電力、鉄鋼、化学、電機、ガス、石油、セメント、紙パの8業界の代表がスピーチするのだが、全然ディスカッションになっていない。自分の業界に都合のいいことだけをしゃべるだけである。電気会社はオール電化技術を勧めるし、ガス会社は燃料電池、セメントは副産品の再利用だし、鉄鋼は製鉄所の熱バランスとか水素利用やハイテンの技術、石油は特に何もやっていないようだし(あたりまえか)、化学と電機は太陽光発電は競合関係。要するに第一部とは全く逆で、どんどん新製品を買ってもらえば、CO2は削減される、ということを言っているわけだ。

そして、驚くことに司会者の藤沢さんは、第一部の福島さんの話をあれだけ絶賛したにもかかわらず、「やはり福島さんのいうような、”使わないCO2対策”には限界があるので、こうした企業による開発活動は大変重要だ、と一気に豹変してしまった。嫌なタイプだ。さらに「旦那が、歯を磨く時に水道を出しっぱなしにする話」まで披露してしまったのだが、旦那への忠告としては「石田純一化する前に早く別れたほうがいいだろう」と言いたくなるが、「離婚幇助罪」になりそうなのでやめておく。

ところで、紙パ業界の方が、最も驚愕の技術を教えてくれたのだが、いまだに自分の中で消化できていない。

現在、輸入材の供給源として、海外で植林活動をしているそうだ。まず、植林地の一部(1ヘクタール程度)に約1、000本程度の予定される種類の苗木を植えるそうだ。そして1、2年経った頃、その予備的な林を調査する。多数の植林をすると、中に特異遺伝で他の木より2倍以上の速度で巨大化する個体があるそうだ。そして、その個体(樹木)を見つけたあと、そのクローンを大量に生産してから、予定地に植えるそうだ。そうすると、伐採までの時間が大幅に短縮できるそうだ(5年が2年になったりする)。オーストラリア西部でのクローンユーカリの植林の画像が紹介されたのだが、会場は静かになってしまった。うーん。

特にユーカリは、塩分を含む劣悪な土壌でも育つとはされるが、別名「森のギャング」とも呼ばれ、すべての栄養分を地中から吸い上げると言われているのだが・・・

それに、何らかの(経済的とか)理由で、植えた苗木を伐採しないで放置してしまったら、巨木がどんどん蔓延してしまいそうな気もするのだが、大丈夫なのだろうか?もちろん、ハイブリッド植物ではないので自然に種子はできてしまい風に乗って広く分布してしまうかもしれない。樹木の寿命は長いので行く末を知ることはできないだろう。

そして、そこまでして上質な紙を作っても、その上に印刷されるだろう高価値のパブリシティは存在しているのだろうかとまで考え込んでしまうのである。