江戸城には謎が多いのだ(2)

2005-05-04 15:15:53 | The 城
561b5b42.jpg江戸城郭はきわめて巨大だ。南西方面は今の外堀通り(新橋と四谷のライン)、北側はお茶の水駅のそばの巨大な水堀までだ。実際には、この城の攻防戦は起こらなかったのだが、戦国時代の鉄砲と刀と言う攻撃戦術では難攻不落であっただろう。その城郭のシンボルとなるべき天守閣は、1657年の明暦の大火(振袖火事)で焼失して以来、再建されなかった。それはなぜか?

まず、消失した天守閣は敷地の最北部にあるのだが、徳川家康が1590年に現在の本丸中央付近に新築した天守閣を三大将軍家光が建て直したものとされる。1629年から改造をはじめ1636年に完成。その前に、二代将軍秀忠が少し北側に移転したと言われる。徐々に本丸機能が拡大し、その都度天守閣が北に移動したわけだ。「官庁の肥大化」現象は徳川時代からなのだ。

家康の使った部材は秀忠の行った天守閣移転時には大部分転用されたと思われるが、家光は全部新品にとりかえたそうだ。さらに、これには余分な話があって、仙台の伊達家が自分の築城の材料として解体された江戸城の廃材を受領している。そして仙台まで持って行ったのだが、実際には使っていないのだ。歴史には謎が多い。

なかなか、資料も揃わず、よくわからないのだが、そもそも、太田道灌の作った初代江戸城自体、家康が江戸に入った時には、あったのかなかったのか不明。そして、江戸城天守閣の大きさもアバウトではあるが、図面などから考えると、石垣から上の高さが約57メートル、金シャチが3メートルで合計60メートルだったと想像される。そして床面積は大坂城の2倍と言われているのだが、それは大きすぎるような気もする。石垣の高さは23メートルあったとされるのだが、どうなのだろう。

家光の城造りの基本コンセプトは「巨大さ」だったらしい。豊臣家のいた大坂城より大きくし、高さは、かつてあった安土城より高くということだったらしい。ただし、家光の時代には、既に豊臣家は滅亡しているのだが、関が原の直後、大坂の陣までの間に、名古屋、姫路、熊本などの大城ができているのである。これは、大坂城と同じくらいの城をいくつか作って、「豊臣家はたいしたことはない」と思わせるためであったそうだ。実際に城を一つ一つ見比べるのは、「お庭番」位のものだろうが、こうして大城時代になっていたのだ。そのため、江戸城はそれらより大きなものにしないと格好がつかないことになる。段々立派になっていった3本の本四架橋のような話だ。さらに横幅が広くがっしりとしたピラミッド型の名古屋城・姫路城と、5階建ての上に、二種類の様式の茶室仕様の楼閣を重ねたタワー型の安土城より高くしようとすると、かなり1階の床面積を大きくしなければならない。結果として、「富士山が二つになった」と江戸っ子が表現するような五層六階の巨大な建造物になった。

一方、調べていて、涙が出るほど嬉しかったのは、外構工事や石垣工事を担当したのが、あの城作りの名人である藤堂高虎であることがわかったことだ。宇和島城、今治城などを作った城作りのスペシャリストだ。言われてみれば、九段下から日本武道館に入るところの造りなんか、かなり感動的ではないか。とすれば、彼の名声は相当のものだったのだろう。ゴルフの難コースの設計で有名なピート・ダイ氏の著書を読むと、日々難しい設計を考えているとのことだから、藤堂高虎もそうだったのだろうか。虎は死んでも城を残したわけだ。

さて、家光が完成させた大天守閣が焼失したのは、築21年後の1657年であり、同時に本丸や西の丸も焼失。早い話が全部燃えたわけだ。そうするとまずは本丸や中奥、大奥を作らなければならない。そして当時の将軍はすでに家光の子である4代家綱であるが、当時まだ16歳で実権は叔父にあたる保科正行(3代家光の弟)が取り仕切っていた。

ここから、大概の著書では、天守閣の再現のため、天主台の工事までは終わったものの、明暦の火事のダメージが大きく、江戸の町の再建に多額の費用がかかるので、保科正之は天守閣工事を中止したと書かれている。また、天下泰平でもう戦闘用の天守閣の時代ではないと考えられたとか付け加えられる。

しかし、そうなのだろうか。相変わらず、幕府は各藩の動静には目を配っていて、城の改築など無許可で行えば、よくて殿様の切腹、間違えばお家断絶であっただろう。また、本格的な幕府の財政危機はもう少し後になってからであり、違和感がある。

実は、どこにも書かれていない(と思われる)のだが、正午過ぎに、この江戸城天主台の周りをウロウロしていると、気付いたことがある。明暦の大火の後の本丸、中奥(政務エリア)、大奥の再建図のことである。大火前は、南側の大手門から、北に向って、まっすぐ本丸大広間、いくつかの部屋、中奥、大奥と直線状に並び、大奥の北側が天守閣ということになっていたわけだ。普通の造りだろう。しかし、大火後の設計図では本丸、中奥の規模が拡大したため、大奥の主要エリアは天守台に向って、右側(西側)の空地エリアに移動したのだ(もちろん通路でつながっている)。ということを現代の空地の中に思い描いたところ、空想上の巨大天守閣から伸びた日影は、午後の太陽を大奥から奪ってしまうことに気がついたのだ。日照権問題だ。

ここで、考えを整理してみれば、将軍はまだ若い家綱。補佐役は叔父の保科正之ではあるが、保科としては、中奥政務エリアを支配することはできても、大奥は煙たい存在であったはず。おそらく大奥筋からの天守閣建設反対の声を無視しにくかったのではないだろうか。こうして、大奥のわがままは徐々に拡大し、やがて訪れた保科正之の死、そして家綱の死により、急遽将軍となった5代綱吉とその母である桂昌院の時代に繋がっていくのである。

実は、この天守台にも不思議がある。よく紹介されるのは、天守台の高さは20メートル以上といわれるのだが、それほど高くはないように思える(もっとも徳川初期にはまだ和算は発展していないため、建物の高さを測定するのも一苦労していただろう)。また8代将軍吉宗が石垣を整備したとも言われ、石についた黒い煤は幕末の火災のものだと言われるが、石の色をみれば何種類かの火事の痕跡が読み取れ、さらにわからなくなる。合理的に考えるなら、何回か石の組み直しが行われたのだろうと推測できるが、特に吝嗇家の吉宗がそれをやったとすれば、目的は何だったのか見当がつかない。案外、普段ケチだったのは、天守閣を再生するためだったのではないかなどと、とんでもないことを想像するのである。彼の居城だった和歌山城天守閣は、小さいながら立派な城だ。

実は、現代の東京に、江戸城を再生しようと小さな声でささやいている人達がいるのだが、それはそれで、結構難しいだろうと思う。私見で言うなら、全国の杉の木を全部切り倒して高さ600メートルの木造電波搭を作るならば大賛成なのであるのだが・・


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