「江戸城再建を目指す会」

2012-10-16 00:00:49 | The 城
先日、東京駅の丸の内側からの再建後の姿を見た後、地下道から八重洲側に回り、仕事上使う予定の商品券を大丸百貨店で購入。実は、この商品券は数日後、神戸の某社(もちろん堅気の会社)に「お祝い」として持参したのだが、その会社の前に大丸神戸店があるという気まずい結果となる。

商品券の話じゃなく、大丸の話でもなく、そのあと八重洲地下街を歩いて再び丸の内方面に行こうとしていたら、地下街の広場に、パネルや模型の天守閣があるではないか。


edojo


天守閣マニアとしては、立ち寄らないわけにはいかないのだが、胸騒ぎの通り、江戸城天守閣だった。

実は、江戸城については特に詳しく調べたこともある。太田道灌の江戸城は、ちょうど皇居の中央付近にあったのだが、江戸幕府の江戸城は皇居の北西側に建物が偏っていた。その一番奥の方にあったのが、天守閣と大奥。この場所は、今は皇居東御苑として、市民に入場料無料で公開されている。外国人が沢山見学している。一番奥に石垣が組まれているが、幻の明暦天下普請の跡である。(実は、早朝の公開時間前には、騎馬隊のお馬さんのかけっこの練習を行っている。めったにお馬の出番はないが、次はいつだろう。慶事ならいいが、皇太子再婚の儀とか。弔事ならまあ、・・)

どうも、話が前に進まない。

実は江戸城天守閣は徳川幕府初期に三度建て替えられている。

1607年(慶長12年)。有名な築城家、藤堂高虎の設計である。近江出身の彼が地元から連れてきた大工一家「甲良家」が、この後、幕末まで、江戸城の一切の工事の総元請けとなり、図面を独占する。

次に、1622年(元和8年)。行政機構でもある本丸の拡張のため、天守閣を移動(というか作り直し)する。この際、仙台の伊達家では、解体した古材を頂戴し、仙台城の再建に使用したい旨のゴマすりを行うが、古材をわざわざ仙台まで運んでから、使用しないで廃棄したようだ。

次が、1638年(寛永15年)。最後の江戸城天守閣である。五重で、かつ巨大で高さも十分だった。遠く北関東から南関東まで一目だったはずだ。しかし、1657年に明暦の大火で焼失。そう、江戸の歴史を見ると、江戸城は何度も火事で燃えているわけだ。街の構造上の問題かもしれない。今も、皇居前広場は緊急時の避難場所になっているが、私は、そこには行かない。歴史に学ぼう。

いや、本当に話が進まない。



そして、明暦の大火のあと、江戸城の一番奥に天守台の石組みまで造り、設計図まであったのに、実際には天守閣は再建されなかった。理由はいまだに明らかにはなっていないが、経済的理由とも言われる。現地調査を一人で行った私見では、天守閣の北側にある大奥の日当りが悪くなるから女たちのエゴで反対者が多かったのではないだろうか。実際、天守閣は役に立たないし。

そして、現代の「江戸城再建を目指す会」が設計図を書いたのは、寛永版天守閣である。実在した最後の天守閣のコピーを作ろうということだ。

個人的には、実在できなかった最後の明暦天守閣の方を造ればいいのではないかと思っている。


が、実は石原都知事は、東京都議会で推進派の質問に対し、こう答えている。

江戸城再建は、基本的に都にとって好ましいことと思う・・と述べ、修復された江戸城天守の、ライトアップされた姿が夜空に浮かび上がったら、都にとっても歓迎すべき光景になる・・と回答しました。


どうも五輪誘致に成功したら着手しそうな感じだ。

そういえば、島の購入費として寄付された15億円を流用すればいいのかもしれないが、最大の問題は建設予定地の地主の同意なのかもしれない。


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