岩国城の上下バラバラはなぜか?

2016-11-17 00:00:40 | The 城
錦帯橋を渡ると、吉香公園がある。岩国城はその公園の北側の横山の山上に築かれている。オリジナルの城は関ケ原の戦いの時に、毛利一門でありながら徳川に寝返った吉川広家が、戦後に毛利藩の存続に走り回った結果、皮肉なことに小大名になり下がった毛利家のさらに支藩というところに落ち着いたことに起因し、1608年に竣工。本丸と4重6階建ての天守閣が立った。

しかし、奇妙なところもあるのだが、徳川幕府による一国一城令によりわずか7年で城は破却され廃城となる。こんな山の上に築城する苦労からいえば、壮大な無駄だ。MOTTAINAI!ARIENAI!だ。さらに、周防の国にはこの城しかないのだから、壊す必要はなかったのではないだろうか。

(ただし、徳川幕府の威光は絶対的なものであり、少しでも謀反の嫌疑をかけられないために過剰サービスをしたのかもしれない。あの仙台伊達藩にしても、江戸城が建て直しになる際に、古い江戸城の材木一式を引き取り、仙台城の一部に再利用させていただきますとゴマすりし、廃材を仙台まで運んだうえ、ひそかに捨てたりしている。)

そして、現代人は、山の上まで歩ける人はほとんどいないため、ロープウェーに頼ることになる。ほとんどが外国人の中、山頂で降りると、そこから山道を10分歩く。もっと城に近いところに駅がほしい。山道の両側には大小さまざまな石垣崩れの岩が転がっていて、かなり大きな城が築かれていたことが想像される。

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そして、山頂の平地に到達すると、驚きの光景がある。

天守台が登場するのだが、下界から眺めたときは、石垣の上に天守閣が見えたのに、石垣だけだ。さらに目を凝らすと、その先に天守閣が見えた。つまり、上下別にあるわけだ。

天守台を観察すると、かなり古風な石の組み方で、芸術性も何もない、1570年頃の素朴な組み方であり、吉川広家が実用本位の人間だったということがわかる。そして、本物の天守があった場所と現代の復興天守の中間地点が、本丸があった場所だが、なんとトイレが建っている。

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そして、天守閣をみると、上層階が南蛮造りになっている。安土城とそっくりである。昭和37年に、昭和の名築城家である藤岡通夫氏の設計で再建されたのだが、藤岡氏の設計は熊本城や和歌山城といった、元の写真や証言が残ったものが多く、350年も前の城の設計には、多くの推論が含まれるものと思われる。吉川広家は安土城をみたことはないはずだし、残っていた絵図に信憑性があるのか、石垣の素朴さとか、幕府との関係からいって南蛮造りには違和感が残る。

そして、天守閣が立った後で、天守台の石垣の発掘作業が始まったそうだ。順序について、あまり納得できないが、これが上下バラバラになった理由らしい。

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とはいえ、天守閣を見晴らしのいい場所に移転したため、眼下には錦川や錦帯橋、遠く岩国の市街地がのぞめ、さらにその先にあるのは、米軍の岩国基地であって、そういえば冷戦時代には核兵器搭載の原潜が、核兵器を搭載しているかどうかを明らかにしないで寄港していたということを思い出すわけだ。


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