完全に公園になった駿府城

2006-07-31 00:00:30 | The 城
739cfce7.jpg駿府城は、静岡駅から徒歩10分弱である。駅前の国道を渡ると商業地区になり、○I○IA館・B館や109といった渋谷風(渋谷のA館B館は西武。逆に静岡には松坂屋がある)の雑然とした街路の先に、オフィス街がある。一段と高いビルがあるが、それが県庁だ。そして、県庁は明らかに外堀の内側にある。残念パターンだ。東京もそうだ。外堀通りと内堀通りの間には官庁街がある。福井県は県庁が内堀の中にあるので、静岡はそれよりましか。

なにしろ、駿府城といえば徳川家康である。元々、今川家の本拠地であるが、家康にとっては、今川の人質になった時期。信長と盟友関係を結び、所領として与えられた時期。そして、江戸幕府を開いた後、秀忠に将軍を譲ったのに、この駿府城で大御所政治を行っていた時期と三度もここに居住した。

堀は、外堀、内堀に加え、本丸を取り囲み内側にもう一重あるという念の入れ方であった。現在、ここが城であったことを認識させるのは内堀の一部が残るからであるが、よく見ると石垣はかなり人工的に整備された形跡がある。総合的に考えれば、歴史的遺構を残したいのか残したくないのか、今ひとつよくわからない。おそらく、明治以降、旧徳川政府に対する評価が定まらないことから、妙なことになったのだろうが、日本の文化や精神の大部分は江戸時代に発達したものが多い。

739cfce7.jpgそして、史実では、家康が秀忠に将軍職を譲り、駿府城で大御所政治を行うとき、ご意見番であった藤堂高虎も静岡に移り住むことになる。彼は参勤交代の別枠だったのだろう。駿府城前の追手門の前に居を構えたと言われる。現在の追手門の前には何があるかだが、「市役所」と「警察署」である。警察署の敷地の方は若干狭いようなので、市役所の場所こそ高虎の屋敷であっただろうと思う。もちろん現代では、高虎の影はまったくない。

739cfce7.jpg内堀の内側は、現在は公園化していて、中には徳川家康公の銅像が立つが、ちょっと威張りすぎたスタイルである。某国の前支配者のような態度だ。さらにわからないのは、一角に「お手植えみかん」というコーナーがある。家康公が自ら植えたミカンの木とされるが、ミカンの寿命は400年もないだろうし、よくわからない。わからないといえば、このミカンの説明書きを読むと、さらにわからなくなる。要するに、隠居していた頃(これは違う。隠居などではなく「大御所政治」をしていたわけだ)に「紀州から届いたみかんの木を、本丸脇に植えた」と書かれている。さらに、「静岡ミカンの起源を知るために貴重なものである。」とまわりくどく書かれているのだが、ということは、静岡ミカンは紀州ミカンのコピー商品だ、といいたいのだろうか?そう思うなら、はっきり書けばいいのだが、学説でもないのだろう。

あるいは単に私の気のまわし過ぎなのだろうか。

城内の一角は、発掘調査中である。調査が終われば公園として整備されるそうだが、果たしてそれほど公園が必要なのだろうか。ますます、何やっているのか訳がわからなくなりそうである。財政再建のためには、サッカースタジアムとか競馬場とか商業施設を作ればいいじゃないかと思うのだが、そうもいかないのだろう。県庁から丸見えで、試合中は仕事の邪魔になる。いっそ、家康公の意思を継ぎ、ミカン畑にしてしまえばいいような気もする。


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