奥の細道むすびの地

2018-02-22 00:00:53 | たび
大垣駅から大垣城に向かって歩いているうちに、その先の方に「奥の細道むすびの地記念館」があることがわかってきた。歩きスマホで確認すると、松尾芭蕉の「徒歩で行く奥の細道ツアー」の解散地がこの大垣だったようだ。江戸を出て5ヶ月、2400Kmの終点である。旅行会社のツアーの場合、出発地まで戻って解散することになっているのだが、なぜ大垣で終わったのか。

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突然、芭蕉のことを書き始めても江戸の初期の人のことに詳しい方は少ないだろうし、実際、その「むすび記念館」でも「漂泊の詩人」とか「旅を住まいとした」とか的外れな記載が多いのだが、ごく簡単に振り返ると、1644年に伊賀上野(藤堂藩)の下級藩士として生まれ、10代後半は、いわゆる「包丁侍」だった。城内の調理人である。

そして、あまりうだつが上がらずに20代に俳諧に染まったわけだ。そして30歳の時に思い立って江戸に住むことになる。このあたりの事情がいかにも怪しいわけで、後に隠密説が登場してそれが現在の主流になっている。伊賀忍者のふるさとの出身であり、江戸に出て2年後には日本橋に住み、神田上水の下流の水道工事を行っていた。当時の日本橋は今もそうだが江戸市中の超一等地。伊賀から出てきて2年で住めるはずはない。

もっとも、藤堂藩と幕府の間には様々な特別な関係があったと推測されるので、まだ全貌がわかったわけではない。芭蕉の指折りの弟子のひとりの河合曾良は奥の細道に同行したのだが、この方の墓所は長崎県の壱岐にある。そこで亡くなったのだが、何をしていたかというと巡見使という仕事で、幕府の意を受け、全国を歩いて反政府テロが起きないか検査していたわけだ。つまりこちらの方が隠密そのもののわけだ。つまり曾良の隠密活動を隠匿するために芭蕉の「奥の細道ツアー」を利用したとも考えられる。だから東北方面(伊達藩所領)では、黒羽で13泊し、名所の松島は一泊しかしなかったというのも、すべて曾良の都合ではないか、とも考えられるわけだ。さらに、曾良はツアーの途中で何度も姿を消したり現れたりする。「奥の細道」の編集をして、芭蕉の没後、発行したのだが、隠密的な記載は消し去っている。

で、30歳で江戸に出た芭蕉がロングの旅に出るのは、40歳になってからの「野ざらし紀行」、「笈の小文」、「更科紀行」そして、45歳の時の「奥の細道」である。「旅に生きた」とまでは言えない。奥の細道以降は東海道を何往復かし、50歳で大阪で亡くなっている。辞世の句が「旅に病んで夢は枯野をかけ巡る」であったことと、西行法師をこよなく愛していたことから、一生旅をしていたと思われることになったが、それほどではない(西行法師没後500年で奥の細道ツアーが始まる)。

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それで、大垣で旅が終わったのは、一つは大垣の有力な支援者のところに行ったということらしい。その場所が記念館になっている。そして、その後、芭蕉は舟に乗って水門川から木曽川に出て、下り切って伊勢湾に出ると、そこが桑名で、さらに自分の故郷を目指したわけだ。つまり大垣は陸の中にあるのに水運の重要ポイントだった。

そういうこともあり、記念館の横には船着き場があり、灯台まであって驚く。

さらに気が付いたのだが、大垣に来た年配男が5年後に亡くなるということは、・・