一粒のタネ(5)坂田武雄物語

2011-03-03 00:00:04 | 坂田武雄物語
苗木商としての先行きに、巨大な障壁を感じた武雄は、迷わず次の道を選ぶ。それが、「種子」だった。基本的に種子は毎年毎年の産物なので、何年もかけて育てる苗木の取引よりも勝負が付くのが早いわけだ。

だが、当時の日本で種子を海外に輸出しているものは皆無だった。

ところで、一言で種子といっても、大きく「花の種」と「野菜の種」とに分かれる。(本来は、穀物の種という分野があるはずだが、当時でも現在でも日本では、米作自体が管理農業であり、民間の小企業につけ入る隙はなかったのだろう)

しかし、大正初期には、まだ、花の種子の流通は皆無だった。武雄が取り扱いを始めたのは野菜の種だった。しかし、この世界には、また別の問題があった。「信用」だ。つまり、種子の発芽率がナンパーセントなのかは、植えてみなくてはわからないわけで、まして海外に輸出となれば、日本の種子が、その地で育つかどうかなど、皆目わからないわけだ。



その時、以前、恩師アイスレーの紹介で英国、オランダへ渡欧した時の人脈が役に立つ。欧州筋から、何種類かの野菜の種の生産の依頼が舞い込む。

さらに、単なる輸出ではなく、種を海外から輸入して、自分の農場で品種改良をして、優良品種については輸出しようという新しいチャレンジを選択する。「種の起源」に一歩近づいたわけだ。この時、現在の「サカタのタネ」の原型が完成したわけだ。

まず、海外に好まれたのは、日本の伝統的野菜である小松菜、聖護院蕪、長ネギ、金糸瓜などの種子だった。同時に西洋の花の種子を輸入し、それを改良したり、海外からの大量受注をこなしたりしていた。そういう種の取引が活況化していく中で、武雄は、穀物取引の中心地である米国シカゴに坂田商会アメリカ支店を開設することになる。気合十分である。



さらに、大正11年、新興企業が集まっている横浜の横浜公園に面した場所に、三階建ての事務所を新設したわけだ。武雄33歳の時である。当時の横浜は、日本と海外との接点であり、新興企業の多くが、ここを起点に飛躍しようと次々に進出していた。

ところが、・・

事務所新設後1年、またしても悲劇が起きる。

関東大震災。

その瞬間、坂田武雄は三階建ての事務所の三階にいたわけだ。逃げようと思い階段を這うように一階に下りた瞬間、再度の大揺れが彼を襲った。たまたま大きな金庫のそばにいたため、崩れ落ちる建物の下敷きになったものの金庫のおかげで九死に一生を得る。社員が掘り返してくれたわけだ。

私が以前調べた「カール・ユーハイム」物語でも、ドイツレストラン「ユーハイム」が、店舗開設後1年も経たずに倒壊。こちらも瓦礫の中から救出され、一文無しで人生の後半戦を戦うことになる。その他、横浜の歴史を見ると、この震災で新興企業者の多くが、人生を終えてしまった。死んでしまえば夢も希望も煙のごとくである。

しかし、命拾いしたものの在庫の種子はみな燃え焦げてしまう。せっかくのシカゴの事務所も撤退である。売る種子がない。

その後、横浜市西平沼町に仮設事務所を建てたのだが、これが種子乾燥中の失火で昭和2年に焼失してしまうのだ。

続く