一粒のタネ(4)坂田武雄物語

2011-03-02 00:00:05 | 坂田武雄物語
帰国した武雄が、まず向かった先は両親の元なのだが、米国滞在中に父は郷里の久留米の女学校の校長として勤務していた。本来は官費留学生の彼の前には農商務省の官吏としての道が開けていたのだが、両親に報告した自身の選んだ道は、まったく異なるものだった。「苗木商としての起業」である。

しかし、父伝蔵は、賛成しなかった。「武士の商法」という言葉が思い浮かぶだけだった。親族も友人も反対をしたわけだ。まあ、起業家の最初に乗り越えるべきハードルである。彼は、反対意見に耳を傾けることなく横浜の六角橋(近年、ラーメンで有名になったが)に土地を借り、個人会社「坂田農園(後に朝日農園と改名)」を立ち上げる。元手は、3年間手を付けず貯めていた官費給付金1500円である。

翌年、欧米向けに百合根の輸出を始める。当初は自ら修業していたドリアー社のアイスレー社長に、「何でもいいから送れ」と激励され、日米の植生や気候の差などわからぬまま、やみくもに苗木を仕入れては送ったわけだ。


ところが、苗木の取引は、甘いものではなかった。

例えば、有名なワシントンのポトマック河畔の桜でも、当初、東京都が送った2000本の苗木は、害虫がついていたという理由で、サンフランシスコの水際で全部焼却処分になっている。2年後にやっと1000本が送り直されているわけだ。



坂田の輸出も、何度も失敗し、焼却処分になっている。また船便1ヶ月というのも難関で、輸送中に枯れないように特段の箱詰めをしなければならないことも手間がかかることだった。一方、国内や他国から仕入れた苗木の代金は払わねばならないが、輸出途中で滅損してしまえば、代金は入らない。また、日本人とアメリカ人の樹木の好みの差もわからないままだった。(ヒマラヤ杉のような巨大で伸び伸びしたものが米国人好みで、サツキのようなものが日本人の好みだったのだろう)

そして、3年経っても利益の出る気配は、まったくなかった。「朝日農園」は経営危機に直面し、大倉和親氏や森村市左衛門氏といった財界の篤志家からの援助でなんとか持ちこたえていた。

が、さらに、弱り目に祟り目という事態が発生する。

第一次世界大戦である。


苗木を運ぶなどの平和的目的に用いる船舶はどこにもなくなり、軍事物資の輸送が世界的に優先されることになる。貿易が困難になったわけだ。さらに長い大戦が終結しても、日本の苗木に病害虫が多いということにより、今度は全面輸出停止の処置がとられることになる。

そのため、販路を国内に求めようとしたのだが、坂田は日本人向けに、小さな樹木の苗を売る気には全然なれなかった。哲学が違うわけだ。大きな樹木を売って、その樹木が成長していき、何十年先に樹格の高い鑑賞して心が豊かになるようなものを売ろうとしていたわけだ。安かろう悪かろう、という気にはなれなかった。

そして、アイスレーの訃報が武雄の元に届くわけだ。


こうして、苗木商としての業態と決別する時がきたわけだ。大正8年(1919年)。武雄31歳。父伝蔵63歳で亡くなる。

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