明治憲法へ署名の後、・・

2008-08-04 00:00:31 | 美術館・博物館・工芸品
東京竹橋の二つの美術館、近代美術館本館と別館の間に、国立公文書館がある。入場無料のため、この美術館に行く折々にのぞいてみる。現在(~9月19日)、『明治から大正へ』が開かれている。明治後半から大正にかけて、日本で法律的にビッグイベントが決まった際の公文書多数が公開されている。



特に、目玉が『大日本帝国憲法』。略して明治憲法である。

本文の前には、総理大臣を筆頭に各大臣の署名が左側に並び、最後に右側に天皇の印が押される。

署名は明治22年(1889年)2月11日になっている。紀元前660年に神武天皇が初代天皇に即位した記念すべき日だ。

署名は10人であり、いずれも歴史上の有名人物。彼らは、この明治22年には、何歳だったのだろう。また、江戸時代の身分は?など、まったく文書とは異なる観点で調べると、驚くべく発見もあった。

まず、10人の大臣の年齢と出身について。

1.総理大臣    黒田清隆。薩摩。48歳。
2.枢密院議長   伊藤博文。長州。47歳。
3.外務大臣    大隈重信。肥前。51歳。
4.海軍大臣    西郷従道。薩摩。46歳。(西郷隆盛の弟)
5.農商務大臣   井上馨。 長州。53歳。(清和源氏の末裔)
6.司法大臣    山田顕義。長州。47歳。
7.大蔵・内務大臣 松方正義。薩摩。53歳。(妻子超絶的多数)
8.陸軍大臣    大山巌。 薩摩。46歳。
9.文部大臣    森有礼。 薩摩。41歳。
10.逓信大臣    榎本武揚。幕臣。52歳。

こうみると、薩摩5名、長州3名、肥前1名、幕臣1名。賊臣西郷隆盛の弟や、幕軍最後の司令官が登用されている、というのは現代では違和感があるが、まだ、明治の初めは社会の許容性が大きかったのだろう。

また、50歳前の大臣が多く、当時は若手中心の政治だった、と思うのはちょっと早とちりで、彼らは、明治維新の時から、この明治22年まで、長い期間、政権のトップに座っていた、ということを示している。後継者が出てこなかったのだろう。

よく、海軍は薩摩、陸軍は長州とか言うが、この時は陸軍も薩摩である。(私の個人的見解では、この後登場する山県有朋こそ、日本の権益ラインを深く中国大陸まで拡大した中心人物と思っている)




そして、大きな発見は、彼らの没年を調べている時だった。

明治22年の段階で政権トップにいた彼らだが、この後、徐々に引退し鬼籍に入っていく。大正時代は1912年7月30日に始まるが、この10名のうち4名だけが大正まで到達。

順に、
井上馨 (大正4年・79歳)
大山巌 (大正5年・74歳)
大隈重信(大正11年・84歳)
松方正義(大正13年・89歳)

しかし、一人ずつの命日を調べているうちに、ハッとする日に行き当たる。
森有礼(明治22年2月12日没。41歳)

つまり、この憲法に署名した翌日である。

調べれば、この署名した2月11日、自宅へ押しかけた長州出身の国粋主義者に刺される。犯人は、その場で斬殺されるも、森も翌12日、息を引き取る。政治テロである。