日系企業の国際化と宗教の折り合い(2/4)

2008-08-12 17:41:31 | MBAの意見
2.日系企業の国際進出

製造業を中心とした日系企業が東南アジアを中心に本格的に海外進出を加速させたのは、1985年のプラザ合意以後とされている。「円高」と「国内労働賃金の上昇」、「国内の環境基準の強化」が直接的動機となっている。つまり、東南アジアを中心に海外進出した後も、現地工場で生産された製品の販売先としては、従来通り、日本や欧米向けの市場向けであり、あくまでも日本国内からの生産シフトという考え方が強かった。反面、日本国内の工場閉鎖やリストラが行われるのだが、バブル期においては、労働力不足が起きていたため特に大きな問題は起きていなかったのである。また、当時は欧米系の企業は海外を販売市場と見て進出しており(外資系企業の日本法人など)、その方法には日系企業とは違いがあったと言える。

これらの流れは、悪く言えば、「3K職場の輸出」であり、場合によれば「公害の輸出」であるのだが、当時の東南アジアの市場はまだ、個人消費規模が低く、個人レベルでの安定した所得の確立をはかることが進出先国政府にとっても重要政策であったため致し方なかった面もある。

このため、多くの日系企業は、生産システムや人事管理システムを日本から持込み、一部のアレンジをするにとどめている。背景としては、メーカーの多くは1%から10%程度の少数の日本人スタッフに現地の管理者を加え工場管理をすることになっていて、あくまでも少数の現地日本人に管理できるシステムを構築する必要があったのである。

さらに付け加えれば、最近はM&Aの形態で既存企業に投資する方式が一般的となったが、主にアメリカ企業へ投資した日系企業は、既存の企業のシステムを変更しなかった(というかシステムを理解できなかったのだが)ため、管理不能となり、巨大債務を背負うことになってしまった。アメリカ人が数千人いる工場に10人以下の日本人が経営者として乗り込んでも、「日本システムの方が優れている」ことを論理的に示さなければ既存のシステムを変更することは困難であり、実際には現地会社は、現場と東京の間であいまいに右往左往しているだけであった。一方、東南アジアへの進出は、ほとんどが新規工場建設からであり、ジャパナイゼーションのシステムを導入する形が容易であったのである。

しかし、同一業種(例えば、電機・自動車・精密機器)の日系企業が競うように同一地区に進出していったために、工場の稼動立ち上げを急ぐことが最重要課題となり、文化・宗教・慣習といった非経済的問題については、後追い対応となりがちであった。

また戦後日本では各種の比較文化論は華やかに繰り広げられ、欧米文化と日本文化の差については多くの優れた分析がなされているのだが、ことアジアとの関係においては、戦前の大日本帝国の行動に対する国内的反省があり(諸外国からは反発が存在し)、精神的いびつさが存在する。加え、宗教問題については大多数の日本人には理解できない問題であり、「微妙で取り扱いにくい問題」として国内と同様な寡黙の態度をとるのである。

しかし、アジア各国は日本のように、国家=民族=宗教=言語=文化=慣習というようなことではない(当然ながら、世界のどこでもその算式は存在しないし、日本でもおおむね算式が成り立つだけで実際には各種の例外や差別は存在する。バルカン半島や中東やアフリカ大陸では常に緊張と戦闘が行われ、アメリカ合衆国はそれらの不等号を乗り越えようと南北戦争後たゆまぬ国内努力が続き、今のところなんとか対立の克服に向かっているように見える)。

また、東南アジアは一定の政権的安定をみているものの、全体をとらえればアメリカのような多民族・他宗教の国家であり、国境地区はどこもボーダーレスであり、今後も中国・インドという人口大国のはざまとして長期にわたり少数民族・宗教問題は最大の国内問題である。つまり、宗教的に寡黙な態度をとるのも、「無知からくる寡黙」ではならないのであり「意図的中性さ」が必要なのである。

日系企業が考慮すべき宗教的な状況としては、日本対現地という二元構造と、他宗教国家の中での調和という二つのタイプがあると考えられる。
(つづく)