日本橋の今昔

2005-03-04 14:17:10 | 市民A
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愛読ブログの「余丁町散人の隠居小屋-blog3月3日号」によれば、3月3日は江戸日本橋に橋が架けられた日だそうだ。時に慶長8年3月3日。新暦に換算して計算すると、1603年4月14日になる。なお、3月3日で有名なのは桜田門外の変だが、こちらは万延元年3月3日、新暦では1860年3月24日で大雪の日だった。さすがに新暦4月の中頃では雪は降らないか。日本橋はアーチ型の木造なので、雪が積もると、滑って危険だ。

実は、江戸幕府ができて早々の時期に、五街道の基点を江戸の真ん中に置いたのは幕府の見識だったのだろう、今年で402年だ。五街道といっても日光街道と奥州街道は途中まで同じなので、実際は日本橋発は四街道だ(大阪のニッポンバシは紀州街道の基点なのでこれを入れるとまた五街道に戻るが、そんな計算のはずはない)。

しかし、よく考えると橋というのは両端しかない。交差点状ではない。実際に、日本橋からは南北に二つに分かれ、南側が東海道で、北側が中山道と奥州街道ということはすぐにわかる。しかし、もう一つの甲州街道は橋の北からだろうかそれとも南からなのだろうか?これは難しく、ネット上で1時間も格闘してしまった。ようするに江戸城を北から回って四谷に出るのか、南回りで四谷に出るのか(四谷から先は新宿に向うことは間違いない)。結局よくわからないが、甲州街道ウォーク参加者の話とか丸の内線のルートあたりから推測すると、南回りの現在の内堀通りが甲州街道ではないかと思える。とすると井伊直弼が暗殺された桜田門外は甲州街道沿いということになり、3月3日の二つのエポックが繋がる。しかし、橋と言うのはそういった日本的なファジーさがあり、パリやマドリードやローマのような広場に八方から道が集まるといったドラマティックさはない。

しかし、余丁町散人ブログでは当時の浮世絵が見られるが、建造された橋は長さ67メートル、幅7メートルの木造の美しい姿だったわけだ。ところが、現代の日本橋は最悪だ。なにしろ、空がない。上空は高速道路にふさがれている。東京オリンピックに合わせて作られた首都高速という名前の低速渋滞道路が、土地収用費をケチるために、道路予定地を川の上にしたため、橋の上を道路が覆うという奇妙な風景を作ってしまった。江戸時代には日本橋と富士山の組合わせは浮世絵の定番的だったが、現代の封印され閉塞的な日本橋から見えるものは、三越のライオンと野村證券だけだ。


以前、九州長崎をバス旅行した時に、バスガイドさんが「日本三大ガッカリ」という観光地を紹介してくれた。「長崎メガネ橋」「高知はりまや橋」「札幌時計台」だそうだ。めがね橋を見る前に、バスの中で予防注射を打たれたわけだ。実際には最初の二つは同感だが時計台はそんなにガッカリはしない。

では現代の日本橋はなにかというと、もっとガッカリ度は上だろう。世界3大ガッカリクラスだ。マー・ライオンがその一つ、もう一つは何だろうか?好きに考えて欲しい。

と日本橋にがっかりばかりしてもしょうがなく、なんとかならないかと思っていたら、「日本橋みちと景観を考える懇談会」というのができていた。だいたい、首都高自体の構造が悪く箱崎を中心に渋滞が自然に発生するようになっているわけだ。だが、あのあたりは地下鉄やら配管とか相当深くまで地面が深く利用されていて、ニッチもサッチもいかないかもしれない。地下鉄が2種類あって、その上が隅田川で、その上が道路(日本橋)、その上が首都高。この懇談会の目的が、「中央区の高速道路の再構築」だそうだが、いずれにしても費用対効果とか考えると、無理かな?

橋の話ついでだが、明日、出張で大きな橋をわたることになっている。これこそ日本最大ガッカリと言う人が多い橋なので、本ブログに感想をUPするつもりだ。