モッタ・イ・ナイは何語?

2005-03-11 14:04:50 | MBAの意見
昨年10月16日付け弊ブログ”ワンガリ・マ-タイさんの意味”では、昨年のノーベル平和賞を受賞したケニアの女性運動家で環境省副大臣について書いた。要するに、ケニアのような途上国でも環境問題を重視しているのに、他の先進国はなんだ!というおしかりの受賞だ。そのブログに5ケ月後にTBがきた。

そのマータリさんが3月4日、国連で講演をしたさいに、「モッタイナイ」の精神を披露し、唱和したそうだ。そしてなぜかMOTTAINAIというロゴ入りTシャツもできたそうだ。日本発の国際語の最後が、「ツナミ」では困ったなと思っていたのだが、「モッタイナイ」に変わればそれは嬉しい。

それで、このことば、彼女がいつ覚えたのかというと、1ヶ月前に来日した時に、覚えたそうだ。一体、誰が教えたのかも興味があるが、本質的な疑問ではないので調べない。彼女にいわせれば、モッタイナイは4つのRを意味するそうだ。
リデュース(消費削減)、リユース(再使用)、リサイクル(資源再利用)、リペア(修理)だそうだ。(書いていて気付いたのだが、4つのRではなく、4つのReだ。)
ここで、「もったいない」を三省堂・新明解国語辞典第六版でみると、「もっと有意義な使途があると思われるので、現在のむだな扱い方が惜しまれる様子だ。例:まだ使えるのに捨てるなんて-。例:日曜日を寝て過ごすなんて-話だ。」

英語だと4つのことばで言わなければならないものを、1単語にしているというのが「モッタイナイ」のいいところなのかもしれないが、案外日本人はピンとこない話ではないだろうか。普通、物が壊れれば修理を考える。捨てる前に、まだ使えないか考える。そしてゴミの分別回収には協力する。これって、結構な金持ちから貧乏人にいたるまで至って普通だ。大学の教授だって、暴力組織の幹部だって同じようなものだろう。もちろん、床に落としてこっぱみじんに壊れたノートパソコンとかピストルで撃ち殺してしまった死体なんかはどうしようもないので捨てるしかない。

しかし、実際は、愛用の靴の裏底とかかかとが磨り減ったので、純正品に交換しようと問い合わせると、修理代が1万8千円と言われたりして、あきらめたり、MDの修理を頼むと、2万円と言われて新品を買わなければならなかったりする。しかし一方、リサイクルで引き取られた電気製品の部品などは、ばらばらになり、バーゲン専用の電化製品の部品として再利用されたりしている。

おそらく、「もったいない」は、無資源国日本の長い歴史のなかで、普通にできあがった単語なのだろう。そして、今、この単語が必要だと思う国はたくさんある。国民の多くが肥満に悩むアメリカ。山のような食事を残す韓国。問題だと思うが「内政干渉」と言われかねないのでみんな黙っている。そして中国もアメリカも「モッタイナイ」話ばかりだ。是非、世界共通語にしてほしいものだ。

そして、実は悩ましい問題がある。このモッタイナイだが、日本で古くから伝えられてきた構造は、モノがもったいない=おカネがもったいない。という単純な公式があったからだ。つまり、経済的合理性の中で、環境問題が完結していたわけだ。しかし、現在の社会は、無論複雑系だ。安い石油を使うことが20世紀文化を支えてきたのだが、これなんか「モッタイナイ」限りなのだ、経済的合理性があったわけだ。また古くて燃費の悪い車を燃費のいい新車に買い換えることは、燃料消費からいうとリデュ-スだが、クルマを新車に買い換えるという経済的問題が生じる。

もう少し調べてから書くつもりだが、食洗機のCMでは、水道代が安くなると言っているが、もともとの水道代がきわめて安い市では、効果は非常に少ない。つまり金額効果がないわけだ。水道料金は全国でかなり違う。

つまり、日本ではこのモッタイナイというのが物質的もったいなさと金銭的もったいなさが一致しない場合が多く、本来はそのギャップを政策的な誘導することが必要なのだろう。そして、そんな難しいことを考えないでいいレベルの国はまだまだ多数あるわけで、そういうところは「モッタイナイ精神」で環境保護を進めていけばいいだろう。

ところで、ブログなんか書く時間は「もったいない」というべきなのだろうか?これについてはモッタイナイには別の意味があることを考えてみる。「自分自身を客観的に評価して、それを受ける器に値していないと考える様子。」だそうだ。貴重な時間を使って、弊ブログを読んでいただけるなんて「モッタイナイ話です」ということになる。