言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

「爪と目」を讀む

2013年08月22日 11時00分42秒 | 文學(文学)

文藝春秋 2013年 09月号 [雑誌] 文藝春秋 2013年 09月号 [雑誌]
価格:¥ 890(税込)
発売日:2013-08-10
 芥川賞を受賞した、藤野可織「爪と目」を読んだ。ここのところ、だらだらとして朦朧体ともいふべき文章によるもの(丸谷才一も絶賛してゐたから、それなりの書き手ではあるのでせうが、私の好みではありませんでした)や、淫らな生活を誇らしげに書いた私小説や、気を衒つたとしか言ひやうのない横書きの小説などが続いてゐたので、読むのをやめてゐた。芥川賞だけは読み続けようと自分に課してゐたが、あつさりと音をあげてしまつた。

 それで、久しぶりに読んだ。それでも、これでまた「受賞作を読む」といふ課題を再度実行しようといふ気にはならなかつた。不気味な内容で、女同士の恐ろしいやり取りに、おののくやうな印象もあるが、それは小説の世界であつて、こんな世界がそのまま日常にあるほど、私たちの世界は荒んではゐまい。ホラー映画を見て、それが日常だと思ふ人がゐないのと同じである。そして、「3.11」の悲惨さにたいして同情するのが当然といふ空気のなかで、「怖いと言った。言っただけだった。恐怖はつるつるとあなたの表面を滑っていった。」と書けるのは、日常の観察としては正確だと思ふ。作者が受賞の言葉として「小説は情報だということをいつも意識している。」と書いてゐるが、この挑発的な言葉の正否は措くとしても、自らの作品で実行してゐるについては認めていいと思ふ。

 選評については、あの池澤夏樹がやめたから、とんでもない勘違ひがなくなつて、読み物としては面白くない。が、それだけ現実的な批評が読めていい。小説とそれに対する批評が、同じ媒体のなかで読めるといふのは、芥川賞の存在価値の一つである。

 宮本輝が、かう書いてゐる。「過度な深読みなしではただの文章の垂れ流しでしかないという作品が芥川賞の候補作となるようになって久しい。新しい書き手のなかには、読み手に深読みを強要させる小説にこそ文学性の濃さがあると錯覚している人が、ひとむかし前よりも増えてきたと思う。」といふ言葉が面白かつた。私は、勝手に、それが「きことわ」「abさんご」への批判に読んで、一人溜飲を下げた。一人よがりであらうか。

 

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