言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

第136囘芥川賞受賞作を讀む

2007年02月12日 15時15分39秒 | 福田恆存

  毎度のことながら、芥川賞の受賞作を讀み、感想を書くことにする。「現代文學」をあまり讀まないので、馴染の作家以外には、年に二囘の受賞作ぐらゐが、わづかな繋がりを保つてゐる。

  作品は、  『ひとり日和』 青山七恵  である。

  知人を待つために入つた喫茶店で讀み始めたが、隣の席のおばさま三人の聲が大きく、なかなか文章が頭に入つてこない。小説讀みではないから致し方ないかと自戒してゐるうちに、彼女らの子供が五人ほど入つて來て、喫茶店中を響き亙らせる甲高い聲と、じつに實りのない會話とに辟易して、コーヒーを飮み干す前に出て來た。彼女らを批難する氣持ちもないではないが、運の惡さの方が身に沁みた。別の場所を選べばよかつたといふ思ひである。

  知人には、携帶電話で電話して待ち合せ場所を變へた。こんなとき當り前だが、携帶電話は役に立つ。昨日のことである。そして、今日一仕事終へて家の掃除をして氣持ちを整へてから讀み直してみた。一氣に讀めた。撰者の山田詠美が「私には、いささか退屈」と書き、宮本輝が「途中、冗長なところがあって、小説が長過ぎるのが欠点」と書いてゐて、私もそれに同意しないでもないが、決して讀みにくいものでもなかつた。

「春」「夏」「秋」「冬」「春の手前」といふ構成になつてゐるが、「秋」が良かつた。秋といふ季節は、私は三十歳を過ぎてからあまり好きではなくなつてきたが、この小説の「秋」の切なさは嫌ひではない。讀みながら豫想もついたが、「別れ」の舞臺の秋の寂しさは十分に心に沁みて來るものであつた。

「秋になっても、わたしと藤田君は会っていた。彼には、すごく冷たかったり、すごく優しかったり、そういう起伏がない。わたしたちは似たもの同士だ、と思った。」はずなのに、なぜか「別れ」の豫感がする。

「駅でわたしの顔を見ても、もうたいして喜んではくれないのに、どうして一緒にいるんだろう。惰性、という言葉しか思い浮かばない。認めたくないけれども、わたしは、また同じパターンに陥っている気がする。」

 そして、「別れ」はやつて來た。撰者の高樹のぶ子が的確に引いたやうに「秋」が終り「冬」になると、「なんか、お年寄りってずるいね。若者には何もいいことがないの。」とつぶやいてしまふのである。さらりと過ぎていつたやうにも思へるが、心の痛手は重いはずである。しかし、それを見ないのが、現代文學の作法らしい。

  主人公の二十歳の女性には、依然成熟は訪れない。私には、それが不滿でもあるけれども、さういふのが日本人の文學的感性なのだらうといふ思ひがある。深く傷つかないやうに、早くかさぶたになるやうに、薄皮がむけてヒリヒリする肌に言葉を薄く塗り込んでいくのである。主人公と同居する「お年寄り」の御婆さんもまたさういふ過去を過ごして來たのであるし、主人公の母親もそれを經驗してうまく切拔けて來た氣配は、短い小説のなかにも滲み出てゐる。石原愼太郎は、この小説を絶讚して「都会で過ごす若い女性の一種の虚無感に裏打ちされたソリテュードを、決して深刻ではなしに、あくまで都会的な軽味で描いている」と書いたが、良くも惡くもこれが日本の文學の現状なのであらう。撰者の方方が一樣に「都會の孤獨をうまく書いた」といふことを言つてゐるだけにさう思ふ。

  しかし、それでは一向に日本人の成熟はないだらう。私には不滿がある。曽野綾子の『都会の幸福』を思ひ出した。不幸から目をそらすだけなら、わづかな幸せに感謝した方が良い。しかしながら、現代人も救はれてゐないのではないか。それならば、そのことを書いてほしい。私はさういふ小説を期待してゐる。

  撰者についてのコメントは、いつもながら池澤夏樹のが變である。うまく書いたこの受賞者には「自作では型を壊すことを試みてほしい。破綻の危険を冒してほしい。」と書くが「破綻の危険を冒して」ゐる人には、きつと逆のことを言ふのだらうと思つた。この人の撰評は、いつも後附けである。河野多惠子の撰評もい2007020905014163jijpsocithum001smallつも獨特であるが、今囘も面白い。「よい小説の書き方は、よい小説が書けた時に初めて分るのである。自転車の乗り方はうまく乗れた時に初めて分るように……。」私には、小説の書き方は分らないが、自転車の乗り方には経験がある。まつたくその通りだと思ふ。だとすれば、小説もさうなのかもしれない。「小説のレッスン」などと言ふことを書く文藝評論家がゐるが、それへの皮肉なのかもしれない。

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