言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

「早稻田文學」第6號 出來

2006年10月09日 09時43分14秒 | 告知

紹介が遲くなつてしまつたが、「早稻田文學」の最新號が出た。

●寺山修司「山田太一君へ」    山田太一さんのコメントも載つてゐる。クラス誌「風」に載つたもの寺山の文章と、山田さんがその時代を囘想した文章。早稻田の文學の歴史であらう。

●大塚英志「翼贊下の批評  6」 最終囘

●渡部直己「フーリエはここが出る」  現代思想入門も最終囘ださうだ。次から何が始まるのだらうか。

●齋藤美奈子「舊作異聞   6」 今囘は、實篤の『友情』。前囘の鴎外の『青年』の主人公はニートだといふレッテル張りだつたが、今囘は主人公は「ストーカー豫備軍」といふのは、ずゐぶん思考が硬直化してきたなといふ感じがする。いつもながらだが、今囘も當たつてゐない。種切れかな。ああ、女性だから種ではないか。ネタ切れでした。

特筆すべきは、平野啓一郎の横光利一の『機械』解説である。わづかな分量だが、合點した。御薦めである。

  等等

編輯・發行  早稻田文學會  03-3200-7960    wbinfo@bungaku.net

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にもかかはらず3――話を振り出しに

2006年10月08日 09時07分34秒 | インポート

論點が擴散して來ましたので、話を振り出しに戻します。

  今囘の議論の出發點は、次のことです。

   松原先生の「空しさ」と福田恆存の「空しさ」は違ふ。なぜなら、松原先生は知識人に語るべきことを庶民に傳へてゐるからである。主張と讀者とのミスマッチングによるものである。

  このことについては、まだ私は説得されてゐません。

それにしても、今囘の論爭があつてから、アクセス數が飛躍的に伸びました。通常の4倍ほどです。論爭が好きなのでせうか。それとも、これ自體、松原先生の言ふ「政治好き」の日本人の證明なのでせうか。

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言葉の救はれ――宿命の國語111

2006年10月07日 08時18分47秒 | 福田恆存

 さらに福田は、かう言ふ。

「最初に漢字を借りて國語音韻を表記した上代人においても、音韻は單に音節としてのみ捉へられてゐたのであり、したがつて文字は單に音節を表記する音節文字として理解されてゐたわけです。」

 といふことは、いよいよもつて日本人には文字は發音記號ではないといふことが言へる。 表音主義者が(あるいは、現代の日本人の大部分の人が)、「思ふ」を「思う」と書くが、じつは「オモー」といふやうに發音してゐる。それなら「思う」が良くて、「思ふ」は使はないといふのは、まつたく根拠なしといふことになる。意味を保持し、表語性を最重点におく日本語にあつては、「思う」にする根拠は何もないのである。日本語の音韻は、終始「曖昧、不安定のものでしかありえない」のだ。
 音韻が「曖昧、不安定のものでしかありえない」日本語だからといつて、表記も「曖昧、不安定のもの」で良いといふわけではない。言葉は生きてゐるのだから変はるといふ國語學者がゐるが、彼らなら、表記も時代と共に変はつていくのは仕方ないなどと言ふに違ひない。しかし、それは違ふ。今まで縷々述べたやうに、音韻が変はつたから表記を変へる、それが生きてゐる言語のふさはしいあり方とするのは、家が汚れたから家を建て替へると言つてゐるやうなもので、掃除や補修の労を單に避けてゐる怠惰な精神の自己辯護に過ぎない。
 言語の變化を當然の理と考へる學者に、福田恆存の論敵・金田一京助がゐる。彼らの論爭については、後ほど詳述するが、あらかじめ金田一の主張の眼目とも言へる一節を引用しておく。

「言語が自然性のものだったら、勝手に変化することができなかったはずであるが、禽獣の鳴き声とちがって我々のは伝承性のものである。この、自然的ではなくして、伝承的であることが、人類言語の特性である。
(中略)
 だから言語の変化は言語の発達であり進化である。変化をよそにしては言語の生命がない。変化を肯定することによって、初めて生成発展する言語の真生命が髣髴(ほうふつ)して来るのである。
 ところが、我々はしばしば知らず識らずに、言語のこの変化を否定する間違った態度に出ることがあるものである。たとえば国家百年の大計として画策される仮名遣いの問題に頭から反対する声の如きもその一つである。言語の永遠の変化を肯定するなら、このような反対はできるわけはないのであるが、世間の多勢が、今なお依然としてこの反対の声を収めない。
 どこからこの重大な誤りが来るか。最も大事な国語教授の教室の中にこれが芽ぐむのである。実用文法に養われた規範意識から抜け切れず、教室を出てもなおどこまでも我々を支配して禍根を成すのである。否、頭が白くなってまで、教わった規範意識のもとに囚われる人間の弱さ、目を放って、言語のこの大綱を会得できずにいることが多い。大事なこと故、私はたったこの点からでも、文法教育を少し変え、ひたぶるなる規範意識から、竿灯(かんとう)一歩、言語の歴史性へと観入させるべきであると思う。」
                      (『日本語の変遷』より)

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にもかかはらず2――理想なくても批判有

2006年10月06日 20時34分28秒 | 福田恆存

 以下は、木村さんのブログにコメントしたものです。

 今日は、結論だけにします。御許しください。「理想なくても批判有り」です。批判する人には理想があつたと過去の哲人をいくら擧げても、すべての人の「批判」の行爲に理想があるといふことの證據にはならないのではないでせうか。

 問題は、そこです。

 松原先生に、理想がないとは言ひません。しかし、いつしか理想を求めるよりも、文章の添削で終はることが多くなつてはゐないでせうか。

 先日の講演會については、述べません。私も當事者ですから。これ以上は、思考を停止します。

  以上です。

    ついでながら、「愛と知的誠實」とは別次元といふことについても觸れておきます。

    私は、知識人と市井の人とを分けます。當然でせう。すべての人間において果たすべき道徳ならば、もちろん共通ですが、知的誠實は「道徳」とは違ひます。職業倫理とでも言ふもので、ノーブレス・オブリージュと言ふことです。それは徹底的に追及して良いと思ひます。しかし、それはその本人に言ふべきです。講演會の餘談でするのならともかく、それが主題にするのはどうかと思ふ。違和感はそこにあります。

   愛については、それなくしては存在できないものですから、むしろこちらの方が萬人が考へなければならない問題です。事實、松原先生も愛に引きずられて、大阪まで15囘も講演に來られたわけでせう。知的誠實を全うするために來たといふより、そこでの人間關係を大事にしてきたといふことではないでせうか。木村さんでも遠くから來られたのは、さういふ松原先生に御會いしたいといふ思ひがないとは言ひ切れないと思ひます。

  またまた話が變な方向に行きさうです。

   松原先生に、愛について語れと申してゐるのではありません。やはり根本は「空しさ」です。先生が空しいと言つてゐるのは、人を斬りながらも、その刀が相手に屆いてゐないからではないでせうか。添削に終始して、その本質を斬らないからこそ、相手が反論して來ない、さういふ風に御考へになることもできるのではないでせうか。松原先生は、「粗雜な文章を書く奴に、良い作品が書けるはずはない」(私なりの要約)と言ひますが、本當にさうでせうか。もちろん、知的誠實を知識人は求められるべきですが、知とは別次元の愛なり、希望なりを與へる文章ならば、どうして粗雜さも帳消しにされる「ことがある」と考へないのでせうか。

   なぜもつと理想を、理想的人物像を語らないのか。留守先生にとつての栗林中將のやうな人物をもつと語れば良い。惚れた作家のことを書けば良い。

  主人公と作者とを完全に同一の存在として論じることにも違和感がある。主人公の不道徳に氣附いてゐないから、それは作者が氣附いてゐないからだといふ反論を受けたが、それは正氣だらうか。私は、「こゝろ」の先生が奧さんに自殺の理由を話さないことを不道徳とは思はない(思ひ出してほしい、ここで「人は知的誠實のみに生きるにあらず」と書いたことを。先生の妻への愛と言へるかもしれないではないか)が、もしそれが不道徳だとしても、漱石の不道徳といふ風に一直線に結びつけるのは間違つてゐる。

 

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にもかかはらず 1

2006年10月05日 12時37分54秒 | 福田恆存

 今、私の書いた「松原正先生への註」に贊否が屆いてゐる。その多くは「否」であるが、それを讀んで實に收穫が多い。それで、コメントの連續といふ形ではなく、表に出して、論爭を續けて行く事にする。

 以下は、まづは「梅沢さん」といふ方から戴いたコメントへの反論である。別に、木村さんが御自身のブログでもコメントをされてゐるものもあるので、追追觸れてゆくことにする。御恥づかしい話だが、假名遣ひを間違へたまま引用されてしまつた。不覺と言へば不覺だが、それに對しては訂正も求めない。慌てて書いた結果であり、それもこれも私の責任である。、

「梅沢さん」へ
 御返事有難うございます。
 論旨は依然交はる事がないやうですが、貴兄が續けてくれるかぎりしたいと思ひます。
「私怨から人を批判した事がない」といふのは、松原先生の福田恆存評なのかもしれませんが、私は「私怨」であつても構はないと思ひます。「ない」と斷言出來るほど、強い自我を持てるのかどうかむしろ疑問です。
 その點で、松原先生の道徳的努力の不足を非難する時に(私はそれを言つてゐるのではありませんが)、それを論じる側に道徳的完璧さ(貴兄の言ふ「立派さ」)も必要ないと思ひます。そもそも私は松原先生も福田恆存も活字でしか知らないのですから。
 以上が、まづ前提です。
 その上で、福田恆存は「ほされた」でせうか。著作集が二囘、全集が一囘、いづれも大出版社から出される状況を「ほされた」といふのは、説得力がありません。
 なほ、松原先生は大學教授といふ安定した職をお持ちでした。それにたいして福田恆存は、晩年京都産業大學の教授をされてゐたものの、その地位はたへず一介の文筆家でありました。さらに劇團經營といふ、生活的不安を買つて出るやうな人生でした。その上で「ほされる」ことでもあれば死活問題になつたでせうから、「ほされた」とは言へないでせう。どうでも良いことですが、事實を確認します。
  もちろん、福田恆存は言論において妥協したわけではありません。こびへつらつたわけでもないでせう。それは一致した見解だと思ひます。

  福田恆存が松原先生を評して「私は追ひ越された」と書きましたが、「追ひ越したこと」が正しいことかどうかは判斷してゐません。ただ「追ひ越した」といふ事實を指摘しただけです。が、私にはそこに福田恆存と松原先生との違ひを感じたのです。

  もう一度書きます。
「人は知的誠實のみに生きるにあらず」です。何だか照れ臭いですが、「人は愛によつて生きる」のです。松原先生も、御弟子の方には、知的誠實さを追及するよりは、愛を先立てて許してゐるやうでした。他の知識人に對してあれほど嚴しく批判する方であるのにです。
  愛と知的誠實とは別次元ですが、別次元であるからこそ、「知的誠實のみに生きるにあらず」でせう。知識人は社會的な役割として知的誠實を求められてゐる、彼らに對して知的誠實を求めるのは當然です。
  しかし、知識人でもない人人にそれを言つて溜飮を下げる(あるいはそれを聞いて溜飮を下げてゐる)のは、見てゐて氣持ちよくありません。
  もつと、理想に向つて語るべきです。ある人から言はれました。松原先生の愛讀者です。その人も、「松原先生は、何のために書いてゐるのか」と。何を目指してゐるのか、と。知的誠實が本質的な理想なのでせうか。福田恆存にはあつた理想が、どうにも見えません。松原先生の言論には、なにか空しさを感じるのは、さういふこともあるかと思ひます。

  この論爭、どなたかが相手にしてくださる限り續けたいと思ひます。

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