今、私の書いた「松原正先生への註」に贊否が屆いてゐる。その多くは「否」であるが、それを讀んで實に收穫が多い。それで、コメントの連續といふ形ではなく、表に出して、論爭を續けて行く事にする。
以下は、まづは「梅沢さん」といふ方から戴いたコメントへの反論である。別に、木村さんが御自身のブログでもコメントをされてゐるものもあるので、追追觸れてゆくことにする。御恥づかしい話だが、假名遣ひを間違へたまま引用されてしまつた。不覺と言へば不覺だが、それに對しては訂正も求めない。慌てて書いた結果であり、それもこれも私の責任である。、
「梅沢さん」へ
御返事有難うございます。
論旨は依然交はる事がないやうですが、貴兄が續けてくれるかぎりしたいと思ひます。
「私怨から人を批判した事がない」といふのは、松原先生の福田恆存評なのかもしれませんが、私は「私怨」であつても構はないと思ひます。「ない」と斷言出來るほど、強い自我を持てるのかどうかむしろ疑問です。
その點で、松原先生の道徳的努力の不足を非難する時に(私はそれを言つてゐるのではありませんが)、それを論じる側に道徳的完璧さ(貴兄の言ふ「立派さ」)も必要ないと思ひます。そもそも私は松原先生も福田恆存も活字でしか知らないのですから。
以上が、まづ前提です。
その上で、福田恆存は「ほされた」でせうか。著作集が二囘、全集が一囘、いづれも大出版社から出される状況を「ほされた」といふのは、説得力がありません。
なほ、松原先生は大學教授といふ安定した職をお持ちでした。それにたいして福田恆存は、晩年京都産業大學の教授をされてゐたものの、その地位はたへず一介の文筆家でありました。さらに劇團經營といふ、生活的不安を買つて出るやうな人生でした。その上で「ほされる」ことでもあれば死活問題になつたでせうから、「ほされた」とは言へないでせう。どうでも良いことですが、事實を確認します。
もちろん、福田恆存は言論において妥協したわけではありません。こびへつらつたわけでもないでせう。それは一致した見解だと思ひます。
福田恆存が松原先生を評して「私は追ひ越された」と書きましたが、「追ひ越したこと」が正しいことかどうかは判斷してゐません。ただ「追ひ越した」といふ事實を指摘しただけです。が、私にはそこに福田恆存と松原先生との違ひを感じたのです。
もう一度書きます。
「人は知的誠實のみに生きるにあらず」です。何だか照れ臭いですが、「人は愛によつて生きる」のです。松原先生も、御弟子の方には、知的誠實さを追及するよりは、愛を先立てて許してゐるやうでした。他の知識人に對してあれほど嚴しく批判する方であるのにです。
愛と知的誠實とは別次元ですが、別次元であるからこそ、「知的誠實のみに生きるにあらず」でせう。知識人は社會的な役割として知的誠實を求められてゐる、彼らに對して知的誠實を求めるのは當然です。
しかし、知識人でもない人人にそれを言つて溜飮を下げる(あるいはそれを聞いて溜飮を下げてゐる)のは、見てゐて氣持ちよくありません。
もつと、理想に向つて語るべきです。ある人から言はれました。松原先生の愛讀者です。その人も、「松原先生は、何のために書いてゐるのか」と。何を目指してゐるのか、と。知的誠實が本質的な理想なのでせうか。福田恆存にはあつた理想が、どうにも見えません。松原先生の言論には、なにか空しさを感じるのは、さういふこともあるかと思ひます。
この論爭、どなたかが相手にしてくださる限り續けたいと思ひます。
以下は、木村さんのブログにコメントしたものです。
今日は、結論だけにします。御許しください。「理想なくても批判有り」です。批判する人には理想があつたと過去の哲人をいくら擧げても、すべての人の「批判」の行爲に理想があるといふことの證據にはならないのではないでせうか。
問題は、そこです。
松原先生に、理想がないとは言ひません。しかし、いつしか理想を求めるよりも、文章の添削で終はることが多くなつてはゐないでせうか。
先日の講演會については、述べません。私も當事者ですから。これ以上は、思考を停止します。
以上です。
ついでながら、「愛と知的誠實」とは別次元といふことについても觸れておきます。
私は、知識人と市井の人とを分けます。當然でせう。すべての人間において果たすべき道徳ならば、もちろん共通ですが、知的誠實は「道徳」とは違ひます。職業倫理とでも言ふもので、ノーブレス・オブリージュと言ふことです。それは徹底的に追及して良いと思ひます。しかし、それはその本人に言ふべきです。講演會の餘談でするのならともかく、それが主題にするのはどうかと思ふ。違和感はそこにあります。
愛については、それなくしては存在できないものですから、むしろこちらの方が萬人が考へなければならない問題です。事實、松原先生も愛に引きずられて、大阪まで15囘も講演に來られたわけでせう。知的誠實を全うするために來たといふより、そこでの人間關係を大事にしてきたといふことではないでせうか。木村さんでも遠くから來られたのは、さういふ松原先生に御會いしたいといふ思ひがないとは言ひ切れないと思ひます。
またまた話が變な方向に行きさうです。
松原先生に、愛について語れと申してゐるのではありません。やはり根本は「空しさ」です。先生が空しいと言つてゐるのは、人を斬りながらも、その刀が相手に屆いてゐないからではないでせうか。添削に終始して、その本質を斬らないからこそ、相手が反論して來ない、さういふ風に御考へになることもできるのではないでせうか。松原先生は、「粗雜な文章を書く奴に、良い作品が書けるはずはない」(私なりの要約)と言ひますが、本當にさうでせうか。もちろん、知的誠實を知識人は求められるべきですが、知とは別次元の愛なり、希望なりを與へる文章ならば、どうして粗雜さも帳消しにされる「ことがある」と考へないのでせうか。
なぜもつと理想を、理想的人物像を語らないのか。留守先生にとつての栗林中將のやうな人物をもつと語れば良い。惚れた作家のことを書けば良い。
主人公と作者とを完全に同一の存在として論じることにも違和感がある。主人公の不道徳に氣附いてゐないから、それは作者が氣附いてゐないからだといふ反論を受けたが、それは正氣だらうか。私は、「こゝろ」の先生が奧さんに自殺の理由を話さないことを不道徳とは思はない(思ひ出してほしい、ここで「人は知的誠實のみに生きるにあらず」と書いたことを。先生の妻への愛と言へるかもしれないではないか)が、もしそれが不道徳だとしても、漱石の不道徳といふ風に一直線に結びつけるのは間違つてゐる。