言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

言葉の救はれ――宿命の國語44

2006年01月05日 08時56分24秒 | 福田恆存

丸谷才一氏も石川九楊氏と同じく、戦後憲法を肯定する人物である。

丸谷氏は、歴史的假名遣ひで今も文章を書いてゐる。小説はともかく、エッセイには新しい發見があつて面白い。特に、戰後の國語改革への批判は舌鋒鋭く、正鵠を得てゐる。『日本語のために』と『さくらもさよならも日本語』は、いづれも重要文獻である。昭和五十五年九月から六十一年三月まで、中央公論社が出してゐた『日本語の世界』のシリーズが、近年中公文庫として再刊されたが、その編者が丸谷才一氏であつた(他に、國語學者の大野晉氏がゐる)。その第十六卷は、『國語改革を批判する』で、この種のタイトルがつけられてゐるといふことを見ても、本シリーズの性格は分かるだらう。漢字の改革も假名遣ひの改革も、批判されてゐるわけだ。

しかし、私は氏を警戒してゐる。歴史的假名遣ひは確かに大事である。しかし、假名遣ひが正しいからと言つて、その主張が正しいとは限らない。全く別のものである。考へてみれば、戰前の人はみな歴史的假名遣ひで書いてゐたのであるし、假名遣ひが精神の健全性を保證してゐるわけではない。

丸谷氏がかかはつた書のタイトルも、「國語」と書かずに「日本語」と記す意識に、その影はうつすら認められる。國語ではなく、なぜ日本語なのか。日本語とすれば、いかにも客觀的で言語學としての研究といふニュアンスをより傳へられるといふことなのだらうが、私たちの話し書くことばは、國語である。

丸谷氏への疑問を、より具體的には感じるのは、次のやうな文章を讀むときである。氏の『裏声で歌へ君が代』をあげておかう。その題名もまた大いに不愉快である。が、次のやうな文章は、まつたく理解ができない。

 正義をおこなふのが国家の目的だといふのは、愛国心と呼ばれる感傷趣味のせいで眼が曇つてゐる連中が作りあげた宣伝文句か、それとも、もうすこしましな人々が、もしさうだつたらどんなに嬉しいだらうといふ気持で口ずさむ小唄にすぎない。現実的な妥当性はちつともないのだ。

(中略)

結局のところ、国家はただ何となく在ると判断するのがいちばん正しいことになるだらう。それは無目的にただ存在して、その存在の記念として長方形がいろいろの色で染められ、それが風にひるがへつたり、ちぎれて泥にまみれたりする。

國歌が「小唄」で、國旗が「いろいろの色で染められた長方形」であるとは、ずゐぶん不實な言ひ方である。丸谷氏だけが、國歌といふものからひとり超然としてゐると言はんばかりの驕慢ぶりが、ここからは傳はつてくるが、それは大間違ひである。丸谷才一氏の財産や生命を守るのも、氏の文章の著作權や出版權を守るのも、國家の正義ではないのか。その恩惠をすつかり背景に遠退かせて、國家といふものを否定してするのは、御都合主義もはなはだしい。「愛国心と呼ばれる感傷趣味のせいで眼が曇つてゐる連中が作りあげた宣伝文句」であるとの認識は、全く當たらない。

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