この土日、國語問題協議會の講演會に参加したのを機に上京して晩秋の東京を散策した。講演會は遠藤浩一氏の内容が面白かつた。保守思想が矮小化し、閉塞化してゐる。日本といふ足場を大事にしながらもグローバリズムにも対応しなければならないといふ当たり前のことであるが、今日の保守の思想は前者に傾きがちであるとのこと。その通りである。三島由紀夫と福田恆存の「戦後」を論じてゐる氏であるが、両者の違ひも端的に言つてそれに尽きてゐよう。高著『小澤征爾』(PHP新書)の主題もそこにあつた。福田の翻訳論から「翻訳とは、自國語によつて異文化を平和的文化的に掠奪する行為である」を引いて、さういふ自國と他國とを同時にとらへる複眼思考こそが保守思想に必要であると語つた。わづか一時間ほどの時間でこれだけのことを語られたので、多少急ぎ足であつたが納得のひと時だつた。蛇足ながらと言ひながら、「保守の生き方は抱擁を旨とするが、思想家は他者と違ふ主張をすることを生きがひとする。したがつて保守思想家とは矛盾したものなのだらうか」とつぶやきながら講演を終はられたが、一人の人間の生き方に思想をどう定着させるかを考へる思想家は十分に保守的であらうと感じた。
講演會には、劇団四季の方にも来ていただいた。福田の本を読み始めたばかりのその若い担当者は、いろいろと考へてゐる人でもあつた。偶然にも御尊父が私の奉職する学校の卒業生であると知り、話題が広がつた。『私の幸福論』が面白かつたと言はれた。「顔の醜い人は不幸だ」といふことからはじまるこのエッセイは、その文字面を見て反発する人もゐる(夏休みに読んだといふ生徒が、提出してきた読書ノートに書いてゐた)が、その人は面白いと感じたといふ。かういう若い人がゐるかぎり、福田恆存も読まれるだらう。そして芝居の宣伝をしてもらつた。國語問題協議會の事務局長の谷田貝氏は、福田恆存の弟子である。少しく、初演の話を聞いた。それにしても、浅利慶太氏は、どうして今また『解つてたまるか!』を上演する気になられたのであらうか。
翌日、冷たい小雨降る六本木を通つて乃木神社を訪ねた。東京に十年以上住んでゐたが、不覚にも行つたことがなかつた。家内はなぜだか、友達と来たことがあると言ふ。昨年だつたか、文庫化した福田和也著『乃木希典』を読んで、行きたくなつた。中は光の関係かまつたく見えなかつたが、曇天の重さが胸を締め付けた。帰りに乃木夫妻の血のついたものを埋めた場所に建てられた石碑の前を偶然通つて、その思ひは一層強くなつた。雨の日曜日ながら神社では結婚式が行はれてゐて、雅楽が響く中、乃木の覚悟を考へるのはずゐぶん複雑な思考であるが、このちぐはぐさは嫌ではなかつた。もとより乃木は神ではないし、ああした庶民の日常があるから、この神社が廃れることがなかつたのも事実である。司馬遼太郎がどう書かうと、乃木は私たちの英霊である。
帰阪する前に、出光美術館に立ち寄つた。出光に勤める友人から券をいただいたので予定を変更して行つてみた。景徳鎮やらマイセンやら、柿右衛門、古伊万里やらには、まつたく知識をもたないので、説明書きを読みながら一巡するばかりだつた(「写し」を通じて東西の交流を目の当たりにすると、近世といふ時代の広がりをあらためて感じた)が、最後の展示室にある出光の世界的コレクションであるルオーにはしばし立ち止まつた。近年は、毎年三点づつムンクも展示するやうになつたと知つてそれも収穫だつたが、やはり感性はルオーに向いてゐるやうだ。キリストの絵を見て強いまなざしを感じた。額縁にも装飾が施され、色は落ちかけてゐたが、ルオーの職人魂がよく表れてゐると思つた。出光美術館がなぜルオーを求めたのか、ルオーの黒い縁取りをする描き方が日本画と通じてゐるやうに創立者が直観で感じたからだといふ。散逸しかけたルオーの絵を日本人が救つたといふこの一事は、特筆すべき事件だと思ふ。昭和の精神史の一コマであると思ふ。
國語問題協議會は、仮名遣ひを復活させようといふ団体である。しかし、その構成員は超高齢化が進んでゐる。あと十年も経てば、鬼籍に入られる人が多いだらう。さういふ状況のなかで、仮名遣ひの練習をさせることが大事なのか、文語文の文章を書かせることが有効なのか、もつと議論が必要であらう。「現代かなづかい」が思想問題であつた以上、思想問題を語らずに済ますわけにもいくまい。もちろん、協議會の存続と仮名遣ひの存続とはまつたく無関係である。協議會の始まる前から仮名遣ひはあつたのである。しかしながら、交流會や親睦會にとどまつてゐるのもどうかなと思ふ。伝統と近代、ここでも複眼思考が必要である。
一字訂正しました。そしてついでに書き足しました。ありがたうございました。
保守というのは、「日本固有の価値」を重視する立場であるのに対してグローバリズムは、国家間の垣根を廃して、いわゆる「普遍的価値」を重要視する立場であります。
コメントありがたうございます。
むづかしい問題ですので、簡単に言ふことはできないと思ひます。そこで、思ひつきを二三述べます。
確かに、経済においては特にグローバリズムと日本的な価値との共存はむづかしいのかもしれません。先日、友人から聞いた話では、会計基準のアメリカ化で、従来と同じ業績にあるにもかかはらず黒字が赤字になつてしまふことがあるさうです。税理士協会か何かが一致して反対して会計基準を「日本的」にすることが果たしてできるのかどうか門外漢の私には不明ですが、むづかしいのだと思ひます。
内村鑑三を、「日本的キリスト教」と評価することがあります。しかし、それは武士が十字架をぶら下げてゐるといふイメージではなく、あくまでもスーツを着た現代日本人がキリスト者になりうるといふことです。代表的日本人を書いた内村は、世界に通用するキリスト者でした。
福田恆存は、「価値は一つ」と言ひました。「山は一つ」とも。ただ、その登り方にはいくつかあるとも言ひました。私は、それが真実だと思ひます。
遠藤先生の講演は、日本と西洋を対立的にとらえた上での内容でしたので、「略奪行為」といふ表現になつただけで、本質的には「価値は一つ」とお考へだと思ひます。
また、松原先生は、鴎外を引用して西洋と日本の「二本足で立つ」と表現されますが、それもその通りだと思ひます。ただ、御自身の言説や行為は時に一本足であることが多く、そのちぐはぐさが私の松原評の要諦です。
一応のお答へになつてゐれば幸ひです。
前田嘉則