言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

ヘッセ『ペーター・カメンツィント』を読む。

2017年10月25日 16時21分35秒 | 日記
郷愁―ペーター・カーメンチント (新潮文庫)
高橋 健二
新潮社

 

 夏に読んだ本のなかで、この『ペーター・カメンツィント』が紹介されてゐたので読んでみた。一日一章づつ。八日で読み終はる。聖なるものと汚れたものとに引き裂かれて生きるヘッセそのもののやうにも思へる「カメンツィント」の生き方に引き寄せられた。ヘッセ27歳の出世作だが、私はこの年にして読んだ。ヘッセの魂の震へを感じた。彼もまたその年には詩人として自立できるかどうかの際に立ち、それでも言葉で生きることを決意し、もがいてゐた。青年期を思ひ出す。

 そしてその青年期といふことの意味は、前近代から近代へと移行する時の、田舎から都会に出る時の、無教養な人が教養主義の世界に踏み込む時の失ふことと守り抜くこととの間でたたずむ一人の人間の姿の象徴でもある。

 訳者の高橋健二が、この作品を「郷愁」と名付けたのはあまりに絶妙であらう。それは故郷を離れた青年が抱く心情だからである。

 いつも支へられ慕つてゐたが早くに死んでしまつた母、酒飲みでいい加減で嫌ひである父と、どんどん似ていく自分自身、いつでも自分の寄り添つてくれた友人、恋心を抱きつつ成就しなかつた恋人、その中で生きてゐる「カメンツィント」の言葉が心に残る。

 ヘッセの的確な言葉がこの小説の魅力である。

 

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする