言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

今年の三冊

2014年12月31日 07時30分56秒 | 日記
 古い本ばかり読んでゐた。本屋に行く。もちろん本を買ひにである。しかし、以前のやうに迷はず手にするといふことがなくなつた。どうせ読まないだらうといふ思ひが先立つからである。
 かつてもさうであつたが、読むかもしれないといふ思ひが勝つたからとりあへず買つておくことにしてゐた。が、今は「読むべき本はすでに家にある」といふ思ひの方が強いから雑誌の類を買ふことはあつてもあまり購入することはない。
 それで勢ひ「今年の三冊」と言つても、古い本が多くなる。

1 アラン・ブルーム『アメリカン・マインドの終焉』
  15歳のブルーム少年が、シカゴ大学を訪れたときの感動が、学問への道を志すきつかけとなり、生涯その道を貫かせた。人文学の衰退を大学人は、衰退とは思はない。それが問題である。人文学の代表である文学・哲学が思索することを忘れ、文学史と哲学史になるとき、「文学や哲学はいらない」といふ声が大学の内外から聞こえてくるのである。しかし、当事者にはその声は聞こえない。大学には理念が必要であるのにである。そして、その問題意識の延長で今は、芦田宏直氏の『努力する人間になつてはいけない』を読んでゐる。これはすぐに読めさうだ。

2 葉室麟『蜩ノ記』
  これはやや新しいものである。映画にもなつた。武士道とは、語らず、自ら生き方を決することであるか。静謐のなかの熱心を感じたのである。腹に当てる冷たい刀の先には 無念もあつたのかもしれないが、定められた道を生き抜くことの大事さのみが伝はつてきた。小説であるが、かつての日本人はかうであつたと思ひたい。

3 有吉佐和子『恍惚の人』 
  今年の夏は、有吉佐和子を読み続けてゐた。介護する義父の変化を描き続けることができた背景には、作者にどういふ思ひがあつたのだらうと想像された。もちろん実話ではない。取材をもとに書いたのだらうが、自分ならどうしただらうと思ひつつ書いたはずである。その鋭利な自省をかはしながら克明に記すことのできたのには、きつと精神の支へがあつたのだらうと感じた。『華岡青洲の妻』でもそれは動揺である。『江口の里』を読むと、彼女はカトリックの信者であるやうにも思へる。今日の日本人が芯の太さを持てるためには、信仰を求めざるを得ないのだらう。『蜩ノ記』の支へは主君への誠であつたが、それが適はない現代において気持ちの良い人生を送るためには、自己を超越した存在が必要である。

 いい本に出会へたと思ふ。
コメント
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