言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

『批評家の手帖』より

2008年11月23日 12時01分43秒 | 福田恆存

 人間は生れると同時に、それぞれの國語が形造つてゐるそれぞれに異つた世界に登場する。私たち日本人は自然のなかに住む前に、日本語といふお伽話の世界の住人なのである。私たちは登場人物であつて、作者ではない。言葉を操るものではなくて、言葉に操られるものなのである。そして、言葉はつひに言葉だけのものでしかなく、實體のないものであるとすれば、また自然は言葉をもたぬものであるとすれば、私たちは終始言葉のなかにだけ住み、言葉が織りなす撃の登場人物に過ぎぬのであつて、この舞臺を去つて裸の自然の中に出て行くことは出來ぬのである。

 

福田恆存評論集〈第5巻〉批評家の手帖
価格:¥ 2,940(税込)
発売日:2008-11

 

 これは、今月配本された『福田恆存評論集』第五卷「批評家の手帖」の中の「批評家の手帖 六十九」の全文である。遠藤浩一氏の先日の講演の中でも引用されてゐたものである(遠藤先生は、この評論集の編輯にたづさはつてゐるのかしらん)が、十二分に味はふ言葉であると思ふ。

 今では、日本語といふ世界の住人であることの意識の缺如どころか、日本といふ國の住人であることの意識も持ち合せてゐない人が多い。曰く「私は日本人である前に私である。」曰く「日本人らしさよりも自分らしさを。」である。その言葉も日本語で話してゐるのにである。その恥知らずには恐れ入る。私がこれまで縷縷書いてきた「宿命としての國語」とはさういふ意味である。

 昨日、西日本の私學の先生方と大手豫備校講師の先生方と話す機會があり、このことを話題にした。日本人であるために國語教育があるといふあたりまへのことが、あたりまへに受け容れられた。正直意外でもあつたが、生徒の答案を日日見てゐる人人には共通した認識があつた。「字が薄い。」「字が雜である。」「文になつてゐない。」――總じて人に傳へようと言ふ意識がない。それでゐて「理解してほしいとだけは思つてゐる」。まつたくその通りである。彼らが日日使つてゐる携帶メールでも送信しなければ受信はできないのに、「手書き」にすれば「送信」ができないのである。和辻哲郎を引くまでもなく「關係としての存在である人間」は、まづ傳へることなしには生きていけない。その言葉は、日本語である。薄くて讀めない字は、日本語ではない。雜に書かれて判別できない字は日本語ではない。文の體をなしてゐなければ日本語ではない。「私たちは登場人物であつて、作者ではない」のである。自分を人間關係の作者であると思つてゐるからさういふことができるのだ。クレーマーの過剩な反應は、さういふことであらうし、子どもたちのいぢめもさういふことであらう。また、自然に對しても自分が作者であると思つてゐるから環境問題も起きてゐるのである。何度も書いてきたが、「地球にやさしい」などといふ言葉でエコロジーの意識を啓蒙してゐるやうでは、所詮「ごつこ」にすぎない。「先生にやさしい生徒」とは言はないやうに、「地球にやさしい人間」では、人間の理解が淺いのである。私たちは、地球の作者ではあるまい。

 話がずれてしまつたか。私が私である前に日本人である。日本語の世界の住人として生れた私なのである。名前の前に苗字があるやうに、個人である前に日本人である。登場人物の役柄があつて初めて役者は舞臺に立つのである。役者の本名で舞臺に立つことはできない。役柄があつて、その俳優の力量が解るのである。日本語があつて、文才がなり立つのである。であれば、「日本語を學ぶ」は「日本語に學ぶ」に如かず。

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