言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

言葉の救はれ――宿命の國語252

2008年03月26日 21時13分04秒 | 福田恆存

(承前)

 福田恆存は、前囘引用した『私の國語教室』の中で、「歴史的かなづかひの態度はあくまで現實主義的です」とも書いてゐる。しかし、多くの人はさうは考へまい。歴史的假名遣ひを使ふことを、何か特權を見せつけてゐるやうだといふほとんど噴飯物の勘違ひを見せるといふ體たらくである。

 さういふ言論を見るまでもなく、物事を現實的に見てゐないといふのが、もう一つの私たちの宿痾であらう。歴史的假名遣ひは時代錯誤であつて、「現代かなづかい」を使ふのが現實的であるといふのである。その場合の「現實」とは何か。それは國語とはどうあるべきかといふ現實論から出た發言ではなく、自分はそれを使つて來たといふ現状の表明にすぎない。言葉は歴史性を持つてゐるから言葉なのであるといふ現實を見ずに、一個の人間の道具としての言葉の現實を見てゐるにすぎないのである。

 さういふ言語觀が大勢を占める現状にあつて、福田の歴史的假名遣ひ論は、理解し難いだらう。

 更に言へば、福田の言葉の矢は、歴史的假名遣ひを主張する人人にも向けられてゐる。表音主義といふ理想を現實化することが學者の誠意(じつは御爲ごかしに過ぎないが)であると信じる「現代かなづかい」論者を、歴史的假名遣ひ論者は批判するが、表音性といふ理想をも含む現實を見ずに假名遣ひをかたくなに表意文字としてのみ考へる思考をも批判してゐるのである。

 かういふ私も、このあたりの福田恆存の自由な思考、柔かい思考を十二分に理解して自家藥籠中のものにしてゐるとは、とても言へない。福田恆存とは「ふくだつねあり」と讀むが、「ふくざつなり」と揶揄されることがあつたと御本人がどこかで書いてゐた通り、「ふくざつ」なのである。それは何も易しいことを難しく言つてゐるといふことではなく、安易な形式主義、硬直化した原理主義に陷らない柔軟な思考がもたらした結果なのである。「抽象的な、あるいは本質的な思考に不慣れな」私たち、いや私には逕庭の差があつて、どうにも埋め難い。

ちなみに言へば、かつて福田恆存は「日米兩國民に訴へる」(昭和四九年)の中で、かう書いてゐた。

「人は相手を理解したと思つた瞬間から、自分の貧弱な理解力の中に相手を閉ぢ籠めてしまひ、それ以上に相手を理解しようとする努力を怠るばかりか、それからはみ出した相手の姿をみたがらなくなる」と。

そして、その際必要なのは「理解でも理解力でもない。理解の材料としての知識、情報である」と書いてゐた。

しかし、現在では不足してゐるのが「知識、情報」だけでもないだらう。そもそも關心がないのである。國語への無關心、かういふ事態を見ると、ますます状況は惡くなつてゐると思はれる。硬直化した思考、不自由な發想、現代人の私たちは、人間存在を規定する言葉そのものへの關心すらないと言ふことかもしれないのである。

閑話休題。

吉川の論文の誤謬について具體的に丸谷才一氏は、かう書いてゐる。

「音便は発音をそのまま写すのが日本語標記法の特徴であることの證拠だ、と吉川は言ふが、これは大事なことを見落とした暴論にすぎない。歴史的かなづかひによる音便の表記は、綴字的性格を保つたまま発音をも示すための工夫なのである。ムカヒテが mukote と発音するやうに改まつたとき、ムコウテと書いたのでは動詞の語幹がかくれて、意味の標示がおろそかになり、五十音図による活用も乱れるけれど、ムカウテならば、その心配はないからである。」

(『桜もさよならも日本語』一五〇~一五一頁)

「語に隨ふ」とは、かういふことである。表記が「音に隨ふ」のであれば、それは發音記號である。丸谷氏の言ふやうに五十音圖の體系を崩すことなく、國語を表記するとなれば、歴史的假名遣ひといふものにならざるをえない。これが理の當然である。

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