言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

岸田國士の芝居を觀て(續)

2008年03月18日 10時05分18秒 | 日記・エッセイ・コラム

『動員插話』を觀た。

 明治37年の夏。日露戦争が始まり、陸軍少佐宇治のもとにも出征の命がくだる。宇治は馬丁の友吉を呼び、一緒に戦地へ行くよう勧めるが、友吉は黙ってうつむいたまま返事をしない。というのも女房の数代が断固としてそれに反対しているのだ。宇治や夫人の説得も数代は聞き入れず、宇治は主従の縁を切ると怒って行ってしまう。主従の縁と義理、世間的立場と夫婦の愛の間に悩むが、ついにひとり戦地へ行く決心をする友吉に、数代がとった行動とは…。

 『屋上庭園』に使はれてゐた背景の黒板に、一人の軍人が沈默したまま日の丸を描いて行くところから始まる。「日の丸を描く」とは、當時の世論が軍人の出征を強く求めてゐたといふ事態を現はしてゐるのであらうが、何の臺詞も無しに何本も何本も描かれていく樣は、息が詰つてきた。無言の壓力を出征する人人に與へて行くといふ演出意圖は存分に感じられたし、まさに「世間」に支配された私たちの息潛めて暮らす日常そのものであるとしても、あまり印象の良いものでもなかつた。これは、「世間」の力を見せつける岸田戲曲の力と、深津演出の力なのであらう。しかし、もう少しなんとかならないだらうか。理が勝ち過ぎるといふのか、ストレートすぎるのである。疲れてしまつた。これもまた僞らざる感想である。

  將校を送り出す妻、馬丁が行くのを激しく止める妻、そして、それぞれの夫も、時代の板の上でもがいてゐるのである。日清戰爭に勝ち、日露戰爭へと進んで突入して行く日本人の空氣はなるほど、あのやうであつたのだらう。馬丁の妻の勇氣を讚へるべきかとも思ふが、さうださうだと喝采を送る氣にもならない。「戰爭」といふ言葉にどう向かへば良いのか、反戰と贊戰とを私自身がどうやら決めかねてゐる。岸田の戲曲には、その時代の板の上に自身も立つてゐるといふ感觸があるのだが、深津氏の演出にはその感じがなかつた。時代の状況をただ見てゐる、言つてよければ、迷ひなく馬丁の妻に注目してゐるやうに思へたのである。無言のうちに描かれた何本もの日の丸の下で、馬丁の妻は泣き叫ぶ。そして・・・・・・悲劇の結末であるが、私の印象の惡さは、深津氏のその割り切りの良さへのものであると思ふ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする