同じ時(昭和二十一年十一月十六日)に、吉田茂の名で出された「内閣告示第三十二號」には、「現代國語を書きあらわすために、日常使用する漢字の範囲を、次の表のように定める」として、「この表は、法令・公用文書・新聞・雜誌および一般社會で、使用する漢字の範圍を示したものである」や「この表は、今日の國民生活の上で、漢字の制限があまり無理がなく行われることをめやすとして選んだものである」などの前書の後に、いくつかの細則が示されてゐる。
つまり、前囘記した「内閣訓令第七號 各官廳(當用漢字表の實施に關する件)」に示された「從來、わが國において用いられる漢字は、その數がはなはだ多く、その用いかたも複雜であるために、教育上また社會生活上、多くの不便があつた」といふ認識に基く「當用漢字表」のことである。しかし、その「内閣訓令第七號」の認識は、當を得てゐるだらうか。確かにカナモジカイやローマ字會などの動きは戰前よりあつた。
がしかし、いづれも國民の心を捉へることことなく、受入れられることはなかつた。それがこの時期に一氣に力を得たのは、占領軍が國語を排除したかつたからである。それを慮つて自ら漢字を制限し、假名遣ひを表音式に改めたまでのことである。
だからこそ、「當用漢字表」の前書きの五つ目に「字體と音訓との整理については、調査中である」などといふ本末顛倒な細目が出されるのである。「調査中」であるなら、どうして表が出來上がつてゐるのか。常識の立場から言へば、これは考へられないことである。
入學者を選拔するための學力試驗をしようとしてゐるときに、同じ場所ですでに合格發表をしてゐるのと同じである。これほどの愚行が入學試驗でさへ起きないのに、文化の根幹たる言葉について、方針を決めてから「調査する」のは、暴擧としか言ふべきことがない。どう遠慮がちに言つても「はじめに目的ありき」と思はれても仕方のないことであらう。かういふ手法を、一般には誘導といふのではなかつたか。
いつたいに、言葉の表記について、國が決めるといふことも愚かなことである。言葉は國家のものですらない。なぜなら、國家が出來る以前から、あるものであり、私たちの生き方に直結してゐるものである。それを一片の通達で、それも單なる思付きのものによつて變更するとは、由々しき事柄である。それも占領軍に強制されたならまだしも、自ら進んで行つたといふのは、どうにもやりきれない。
時は、かういふ「誤解」と「欺瞞」との時代である。漢字の制限、假名遣ひの表音化、これを進めて、はたして日本は良くなつたのか。精神の不在と時代迎合との風潮は、「言葉」といふ人間精神の本質に亙る次元で呼込まれたとすれば、その後、決して良くなるはずはない。言葉の輕視は、そのまま文化の、人間の輕視であり、生き方の輕視である。
良心の聲を聽くことのできる人々の心が痛まないはずはない。
つまり、前囘記した「内閣訓令第七號 各官廳(當用漢字表の實施に關する件)」に示された「從來、わが國において用いられる漢字は、その數がはなはだ多く、その用いかたも複雜であるために、教育上また社會生活上、多くの不便があつた」といふ認識に基く「當用漢字表」のことである。しかし、その「内閣訓令第七號」の認識は、當を得てゐるだらうか。確かにカナモジカイやローマ字會などの動きは戰前よりあつた。
がしかし、いづれも國民の心を捉へることことなく、受入れられることはなかつた。それがこの時期に一氣に力を得たのは、占領軍が國語を排除したかつたからである。それを慮つて自ら漢字を制限し、假名遣ひを表音式に改めたまでのことである。
だからこそ、「當用漢字表」の前書きの五つ目に「字體と音訓との整理については、調査中である」などといふ本末顛倒な細目が出されるのである。「調査中」であるなら、どうして表が出來上がつてゐるのか。常識の立場から言へば、これは考へられないことである。
入學者を選拔するための學力試驗をしようとしてゐるときに、同じ場所ですでに合格發表をしてゐるのと同じである。これほどの愚行が入學試驗でさへ起きないのに、文化の根幹たる言葉について、方針を決めてから「調査する」のは、暴擧としか言ふべきことがない。どう遠慮がちに言つても「はじめに目的ありき」と思はれても仕方のないことであらう。かういふ手法を、一般には誘導といふのではなかつたか。
いつたいに、言葉の表記について、國が決めるといふことも愚かなことである。言葉は國家のものですらない。なぜなら、國家が出來る以前から、あるものであり、私たちの生き方に直結してゐるものである。それを一片の通達で、それも單なる思付きのものによつて變更するとは、由々しき事柄である。それも占領軍に強制されたならまだしも、自ら進んで行つたといふのは、どうにもやりきれない。
時は、かういふ「誤解」と「欺瞞」との時代である。漢字の制限、假名遣ひの表音化、これを進めて、はたして日本は良くなつたのか。精神の不在と時代迎合との風潮は、「言葉」といふ人間精神の本質に亙る次元で呼込まれたとすれば、その後、決して良くなるはずはない。言葉の輕視は、そのまま文化の、人間の輕視であり、生き方の輕視である。
良心の聲を聽くことのできる人々の心が痛まないはずはない。