朱蒙が高句麗を建国したとき、その中心は現在の遼寧省本渓市桓仁満族自治県の五女山におかれたとされ、その山城跡が現存しています。第2代の瑠璃明王は、高句麗の本拠地を現在の丸都に移したとされ、その山城跡が集安市近郊に現存しています。
4月29日朝10時50分に、集安中心部から2キロあまり北の丸都山城跡を訪ねました。午後4時まで、丸都山城跡の域内を歩いたあと、隣接している古墳群のなかを歩きました。
4月30日朝7時から1時間ほど、宿所の近くの国内城の南部城壁の外側の広場で毎朝8時まで開かれている朝市を歩きました。
この日11時に、集安市街地の鴨緑江岸から9キロほど上流にかけられている「鴨緑江国境鉄路大橋」のたもとに行きました。この鉄橋は、日本侵略期、1937年に建設が開始され1939年に完成したもので、「満洲国」の梅輯線と朝鮮の満浦線をつなぐものでした。朝鮮戦争時には、60万人の抗米援朝志願軍の兵士と随軍担架隊員が、この橋および付近の水域から朝鮮に入ったといいます。
わたしが眺めているとき、朝鮮からの貨物列車が集安通っていきました。2005年に吉林文史出版社からだされた集安市档案局編著『集安旅游』には、集安・朝鮮満浦間に1日1往復の火車が運行されていると書かれていますが、これは数年前から運行が中止されているとのことでした。
「鴨緑江国境鉄路大橋」から500メートルほど上流に橋がみえました。
鴨緑江の右岸の土手の砂利道を歩いて、その橋に近づきました。対岸の朝鮮の山やま、道路、家並み、人びと……がまぢかに見えました。
その橋は、コンクリートの橋で、車両と通行人用のようでした。
橋の近くに、右腕に「武警」という徽章をつけた青年がいたので、軽く目であいさつしました。このとき、かれが「どこから来たのか」と聞くので「日本からだ」と答えました。
そこからさらに20メートルほど進むと、「軍事管理区」と書かれた看板が建てられており、鉄条網がはられていました。「軍事管理区」という看板のすぐ上に2012年5月14日付けの集安市人民政府の「公告」が黄色の文字で書かれた看板がおかれていました。この「公告」によると、この橋は集安市では「集安・満浦界河公路大橋」と名づけられているようです。
この看板の下に、韓国人や中国人の観光客が20人あまりいました。かれらと話しをしていると、突然、すこし前にあいさつした「武警」が近づいてきて、パスポートを見せろといい、軟禁されました。正午ころでした。かれは、携帯電話で公安に通報しました。
10分ほどして、パトカー2台に分乗してやってきた公安に市内の太王村派出所につれていかれ、2時間近く留められ、さらに入管につれていかれ、ここでも30分あまり留められました。
同じ場所にいた韓国の「旅行者」は、「拘束」されず、わたし1人だけが「拘束」されたので、理由を聞くと、「あなたが日本人だからだ」と言われました。なぜか、その答えに納得してしまいました。
「武警」に軟禁され公安に通報された瞬間、考えたことは、最悪の場合でも、①所持品を徹底的に検査されメモ類を押収され、②ビデオカメラで撮影した動画と静止画を削除されて済み、逮捕拘留されることはないだろうということでした。
撮影した動画には、鴨緑江対岸の朝鮮の道を移動している車両や川辺で水遊びしている人たちが映っており、静止画にはさまざまな角度からの鴨緑江にかかる二つの橋とその周辺の写真が含まれていました。「軍事管理区」とかかれた看板の写真もありました。
しかし、撮影した動画は隠しとおし、見つかった静止画も消去されず、所持品検査もかんたんに済み、なにも押収されませんでした。
公安(警察)での「尋問」は漢語でしたが、入管では「尋問」は朝鮮語でした。入管の担当官に「あんたは、朝鮮族か」と訊ねると、「漢族だが、ここでは朝鮮語をつかうことが多いので、朝鮮語を覚えた」と言いました。
結果として、このときの「拘束」での、わたしの「損害」は、2時間半ほどの時間の「浪費」で済みました。
まあ、「浪費」といっても、この2時間半に、この国境地帯の官憲の動きをほんの僅かでしたが知ることができたので、まったくムダな時間を過ごしてのではなかった、と考えることにしています。
「拘束」されたのは、鴨緑江の集安市街地の上流でしたが、「釈放」されてから、バスで鴨緑江の集安市街地の4キロほど下流に行きました。そこは麻线というところで、千秋墓という4世紀末の高句麗王陵の近くです。千秋墓は、集安で最大の王陵で、大量の葺石で覆われていました。鴨緑江は、そこから500メートルほどのところを流れていました。そこの川幅は狭く、30メートルほどでした。渇水期のようで、広い河原が手前の岸に広がっていました。小さな石を10個ほど拾いました。対岸は切り立った崖になっており、その中腹に道路が通っていました。その道を、自動車やオートバイが何台も行き来していました。人の声も聞こえました。
水温はあまり低くなく、泳げるほどでした。
麻线の中心部から集安行きのバスに乗ると、すぐに乗客の一人が、「どこから来たのか、韓国人か……」と聞くので、日本人だと答えると、「日本が中国を侵略したことを知っているか」と聞かれました。
「知っている。日本政府は侵略した責任をとらなければならない……」と答えると、握手を求められました。日本人の戦争責任・侵略責任・植民地支配責任について話さなければならないと思ったのですが、バスのなかではうまく話せないので、やめました。
隣に座っていた人が、「わたしは朝鮮族だ。あなたは日本で何をしているのか」と話しかけてくれたので、その人に、集安に着くまでの約30分間、話を聞かせてもらうことができました。
集安には朝鮮族が多いそうです。あえて名前を聞かなかったのですが、その人の祖父は集安に生まれ、祖父の父は朝鮮から来たらしい、とのことでした。いま、家で使っているのはほとんど漢語だが、子どもたちはみんな朝鮮語が話せる、とのことでした。
鴨緑江が国境線となったのは、14世紀末のようです。
佐藤正人
4月29日朝10時50分に、集安中心部から2キロあまり北の丸都山城跡を訪ねました。午後4時まで、丸都山城跡の域内を歩いたあと、隣接している古墳群のなかを歩きました。
4月30日朝7時から1時間ほど、宿所の近くの国内城の南部城壁の外側の広場で毎朝8時まで開かれている朝市を歩きました。
この日11時に、集安市街地の鴨緑江岸から9キロほど上流にかけられている「鴨緑江国境鉄路大橋」のたもとに行きました。この鉄橋は、日本侵略期、1937年に建設が開始され1939年に完成したもので、「満洲国」の梅輯線と朝鮮の満浦線をつなぐものでした。朝鮮戦争時には、60万人の抗米援朝志願軍の兵士と随軍担架隊員が、この橋および付近の水域から朝鮮に入ったといいます。
わたしが眺めているとき、朝鮮からの貨物列車が集安通っていきました。2005年に吉林文史出版社からだされた集安市档案局編著『集安旅游』には、集安・朝鮮満浦間に1日1往復の火車が運行されていると書かれていますが、これは数年前から運行が中止されているとのことでした。
「鴨緑江国境鉄路大橋」から500メートルほど上流に橋がみえました。
鴨緑江の右岸の土手の砂利道を歩いて、その橋に近づきました。対岸の朝鮮の山やま、道路、家並み、人びと……がまぢかに見えました。
その橋は、コンクリートの橋で、車両と通行人用のようでした。
橋の近くに、右腕に「武警」という徽章をつけた青年がいたので、軽く目であいさつしました。このとき、かれが「どこから来たのか」と聞くので「日本からだ」と答えました。
そこからさらに20メートルほど進むと、「軍事管理区」と書かれた看板が建てられており、鉄条網がはられていました。「軍事管理区」という看板のすぐ上に2012年5月14日付けの集安市人民政府の「公告」が黄色の文字で書かれた看板がおかれていました。この「公告」によると、この橋は集安市では「集安・満浦界河公路大橋」と名づけられているようです。
この看板の下に、韓国人や中国人の観光客が20人あまりいました。かれらと話しをしていると、突然、すこし前にあいさつした「武警」が近づいてきて、パスポートを見せろといい、軟禁されました。正午ころでした。かれは、携帯電話で公安に通報しました。
10分ほどして、パトカー2台に分乗してやってきた公安に市内の太王村派出所につれていかれ、2時間近く留められ、さらに入管につれていかれ、ここでも30分あまり留められました。
同じ場所にいた韓国の「旅行者」は、「拘束」されず、わたし1人だけが「拘束」されたので、理由を聞くと、「あなたが日本人だからだ」と言われました。なぜか、その答えに納得してしまいました。
「武警」に軟禁され公安に通報された瞬間、考えたことは、最悪の場合でも、①所持品を徹底的に検査されメモ類を押収され、②ビデオカメラで撮影した動画と静止画を削除されて済み、逮捕拘留されることはないだろうということでした。
撮影した動画には、鴨緑江対岸の朝鮮の道を移動している車両や川辺で水遊びしている人たちが映っており、静止画にはさまざまな角度からの鴨緑江にかかる二つの橋とその周辺の写真が含まれていました。「軍事管理区」とかかれた看板の写真もありました。
しかし、撮影した動画は隠しとおし、見つかった静止画も消去されず、所持品検査もかんたんに済み、なにも押収されませんでした。
公安(警察)での「尋問」は漢語でしたが、入管では「尋問」は朝鮮語でした。入管の担当官に「あんたは、朝鮮族か」と訊ねると、「漢族だが、ここでは朝鮮語をつかうことが多いので、朝鮮語を覚えた」と言いました。
結果として、このときの「拘束」での、わたしの「損害」は、2時間半ほどの時間の「浪費」で済みました。
まあ、「浪費」といっても、この2時間半に、この国境地帯の官憲の動きをほんの僅かでしたが知ることができたので、まったくムダな時間を過ごしてのではなかった、と考えることにしています。
「拘束」されたのは、鴨緑江の集安市街地の上流でしたが、「釈放」されてから、バスで鴨緑江の集安市街地の4キロほど下流に行きました。そこは麻线というところで、千秋墓という4世紀末の高句麗王陵の近くです。千秋墓は、集安で最大の王陵で、大量の葺石で覆われていました。鴨緑江は、そこから500メートルほどのところを流れていました。そこの川幅は狭く、30メートルほどでした。渇水期のようで、広い河原が手前の岸に広がっていました。小さな石を10個ほど拾いました。対岸は切り立った崖になっており、その中腹に道路が通っていました。その道を、自動車やオートバイが何台も行き来していました。人の声も聞こえました。
水温はあまり低くなく、泳げるほどでした。
麻线の中心部から集安行きのバスに乗ると、すぐに乗客の一人が、「どこから来たのか、韓国人か……」と聞くので、日本人だと答えると、「日本が中国を侵略したことを知っているか」と聞かれました。
「知っている。日本政府は侵略した責任をとらなければならない……」と答えると、握手を求められました。日本人の戦争責任・侵略責任・植民地支配責任について話さなければならないと思ったのですが、バスのなかではうまく話せないので、やめました。
隣に座っていた人が、「わたしは朝鮮族だ。あなたは日本で何をしているのか」と話しかけてくれたので、その人に、集安に着くまでの約30分間、話を聞かせてもらうことができました。
集安には朝鮮族が多いそうです。あえて名前を聞かなかったのですが、その人の祖父は集安に生まれ、祖父の父は朝鮮から来たらしい、とのことでした。いま、家で使っているのはほとんど漢語だが、子どもたちはみんな朝鮮語が話せる、とのことでした。
鴨緑江が国境線となったのは、14世紀末のようです。
佐藤正人
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