■16世紀末以後
国民国家形成以前、16世紀末(1592~93年。1597~98年)に、豊臣秀吉(1537~1598年)の軍隊が朝鮮に侵入し、多くの朝鮮民衆を殺害した。その人たちの名はほとんど明らかにされておらず、その数すら明確にされていない。
国民国家形成以後、日本国家は、周辺諸地域・諸国家を継続的に侵略し、その地の民衆およびその地から日本に連行した民衆の命を奪った。
国民国家日本が最初に侵略したアイヌモシリで、多くのアイヌが、日本人がもちこんだ病原菌によって命を奪われた。
1872年の国民国家日本の「琉球処分」以後、「沖縄戦」までの間に、多くの琉球・八重山地域の民衆が、日本の兵士などによって命を奪われた。
1874年の国民国家日本の「台湾蕃地処分」以後、1945年までの間に、多くの台湾の民衆が、日本政府・日本軍・日本警察によって命を奪われた(1873年1月に日本政府は「徴兵令」を施行し、その翌年、1874年5月に、陸海軍3千数百人の日本兵を台湾に侵入させた)。
1875年に日本の小型砲艦「雲揚」が朝鮮の江華島海域に侵入していらい1945年までの間に、 1894年の清日戦争から1945年までの間に、中国や日本で、多くの中国人の命が奪われた。
国民国家日本の政府・軍隊・企業……が殺害したアジア太平洋民衆の名もその数も、いまなお、ほとんど明らかにされていない。
■1906~1911年に朝鮮で
大韓帝国が日本に内政権・財政権・外交権を侵害された植民地(「保護国」)とされたのは、1905年11月だった(「乙巳保護条約」)。
1906年から朝鮮民衆は、独立戦争を開始した。この抗日反日闘争は、1912年ころまで続けられた。日本軍は、朝鮮各地で、義兵の根拠地と判断した村落を襲撃し、村人を殺害し、家を焼いた。
朝鮮駐箚軍司令部『朝鮮暴徒討伐誌』(1913年)には、1906年から1911年までの間に日本軍・憲兵・警官が殺害した義兵は1万7779人であったと書かれている。
この一桁までが書かれている数字は、そのままでは信用できないが、1910年8月の日本への「韓国併合」前後の5~6年の間に命を奪われた朝鮮民衆がきわめて多かったことを示している。
■1919年に朝鮮で
3・1独立運動を押さえつけるために、日本政府は、軍隊・警察を増強し民衆を殺害した。朴殷植の『韓国独立運動之血史』には死者7509名と書かれている。
朝鮮総督府警務局の報告(1919年6月20日付)では、3月1日~4月30日の「暴民死者」は553人と書かれている。
韓国国家記録院は11月19日に、1953年に韓国内務部(現・安全行政部)が全国的な調査を行い作成した3・1独立運動の犠牲者名簿(1冊)などに関する分析結果を発表した。これらの名簿は今年夏に終わった東京の韓国大使館の新築・移転作業中に発見されたもので、3・1独立運動の犠牲者名簿には、殺害された630人の名前、年齢、住所、死亡した日時や場所、状況などが地域ごとに記録されているという(「東京で発見 3・1運動と関東大震災の韓国人犠牲者名簿」、『ソウル聯合ニュース』2013年11月19日)。 http://japanese.yonhapnews.co.kr/headline/2013/11/19/0200000000AJP20131119002200882.HTML
佐藤正人
国民国家形成以前、16世紀末(1592~93年。1597~98年)に、豊臣秀吉(1537~1598年)の軍隊が朝鮮に侵入し、多くの朝鮮民衆を殺害した。その人たちの名はほとんど明らかにされておらず、その数すら明確にされていない。
国民国家形成以後、日本国家は、周辺諸地域・諸国家を継続的に侵略し、その地の民衆およびその地から日本に連行した民衆の命を奪った。
国民国家日本が最初に侵略したアイヌモシリで、多くのアイヌが、日本人がもちこんだ病原菌によって命を奪われた。
1872年の国民国家日本の「琉球処分」以後、「沖縄戦」までの間に、多くの琉球・八重山地域の民衆が、日本の兵士などによって命を奪われた。
1874年の国民国家日本の「台湾蕃地処分」以後、1945年までの間に、多くの台湾の民衆が、日本政府・日本軍・日本警察によって命を奪われた(1873年1月に日本政府は「徴兵令」を施行し、その翌年、1874年5月に、陸海軍3千数百人の日本兵を台湾に侵入させた)。
1875年に日本の小型砲艦「雲揚」が朝鮮の江華島海域に侵入していらい1945年までの間に、 1894年の清日戦争から1945年までの間に、中国や日本で、多くの中国人の命が奪われた。
国民国家日本の政府・軍隊・企業……が殺害したアジア太平洋民衆の名もその数も、いまなお、ほとんど明らかにされていない。
■1906~1911年に朝鮮で
大韓帝国が日本に内政権・財政権・外交権を侵害された植民地(「保護国」)とされたのは、1905年11月だった(「乙巳保護条約」)。
1906年から朝鮮民衆は、独立戦争を開始した。この抗日反日闘争は、1912年ころまで続けられた。日本軍は、朝鮮各地で、義兵の根拠地と判断した村落を襲撃し、村人を殺害し、家を焼いた。
朝鮮駐箚軍司令部『朝鮮暴徒討伐誌』(1913年)には、1906年から1911年までの間に日本軍・憲兵・警官が殺害した義兵は1万7779人であったと書かれている。
この一桁までが書かれている数字は、そのままでは信用できないが、1910年8月の日本への「韓国併合」前後の5~6年の間に命を奪われた朝鮮民衆がきわめて多かったことを示している。
■1919年に朝鮮で
3・1独立運動を押さえつけるために、日本政府は、軍隊・警察を増強し民衆を殺害した。朴殷植の『韓国独立運動之血史』には死者7509名と書かれている。
朝鮮総督府警務局の報告(1919年6月20日付)では、3月1日~4月30日の「暴民死者」は553人と書かれている。
韓国国家記録院は11月19日に、1953年に韓国内務部(現・安全行政部)が全国的な調査を行い作成した3・1独立運動の犠牲者名簿(1冊)などに関する分析結果を発表した。これらの名簿は今年夏に終わった東京の韓国大使館の新築・移転作業中に発見されたもので、3・1独立運動の犠牲者名簿には、殺害された630人の名前、年齢、住所、死亡した日時や場所、状況などが地域ごとに記録されているという(「東京で発見 3・1運動と関東大震災の韓国人犠牲者名簿」、『ソウル聯合ニュース』2013年11月19日)。 http://japanese.yonhapnews.co.kr/headline/2013/11/19/0200000000AJP20131119002200882.HTML
佐藤正人
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