■一、帝国主義諸国の他地域・他国侵略
「独島問題」は、韓国および朝鮮民主主義人民共和国と日本国間の「領土問題」ではない。それは国民国家日本の他地域・他国侵略の問題であり、帝国主義諸国が侵略によって領土・植民地を拡大してきた世界近現代史上の問題である。
「日清戦争」の前後から「日露戦争」の前後に至る時期は、アメリカ合州国のハワイ・サモア植民地化、フランスのマダガスカル・ダホメ・サモリ帝国植民地化、ドイツの東南アフリカ植民地化、日本・アメリカ合州国・イギリス・ロシア・ドイツ・オーストリア・フランス・イタリア8か国連合軍の中国侵略の時期であった。
1800年、イギリス軍は、本国から遠く離れたシチリア島沖のマルタ島を占領した。マルタが独立したのは1964年である。1842年にイギリスは、マルタ島よりさらに遠くはなれた香港島を植民地とした。
フランスは、1842年にタヒチ島を「保護領」とした。1861年にフランスは南部ベトナム(「コーチシナ」)の東部を、1867年に南部ベトナムの西部を植民地とし、さらに全土を植民地としようとした。1884年6月に、フランスは、ベトナムの支配権を争って、清国と戦争を始めた。1884年12月、朝鮮で金玉均らが甲申クーデタをおこなったとき、フランス軍は、台湾に上陸していた。1885年6月の講和条約(「天津条約」)で、清国は、フランスのベトナム支配を承認した。
1885年2月6日に、イタリアが、エチオピアのマッサワを植民地とし、その1週間後の2月13日に、フランス軍がベトナムのランソンを占領した。その2月後、4月15日に、イギリス軍が、朝鮮の巨文島を占領した。さらにこの年9月30日に、イギリスは、南アフリカのベチュアナランドを「保護国」とした。
同じ年11月28日にイギリス軍はビルマのマンダレーを占領し、その2日後11月30日に、ドイツ軍がマーシャル諸島を「保護国」とした。
1893年1月16日、アメリカ合州国海兵隊がハワイ王国に上陸し、翌17日に侵略者集団が政権樹立を宣言した。翌1894年7月4日、アメリカ合州国の植民者・侵略者集団が「ハワイ共和国」樹立を宣言した。日本政府は1871年にハワイ王国政府と修好通商条約を締結していたにも拘らず、1894年10月6日、「日清戦争」のさ中に侵略者の国家「ハワイ共和国」を承認した。1898年8月、「米西戦争」のさ中にアメリカ合州国はハワイを「併合」した。
フランスは、1894年6月22日にアフリカのダホメ王国(現、ペナン共和国)を植民地とし、1896年8月6日に、マダガスカルを「併合」した。1898年に、マダガスカルの民衆は、フランス侵略者に対する新たな戦いを開始したが、1904年に敗北した。
1895年4月、「日清講和条約」によって清国は、日本に台湾・澎湖列島・遼東半島、および3億円をわたした。このとき、宮古・八重山地域(宮古島、石垣島、西表島、与那国島など)も日本の植民地とされた。
日本の台湾侵略のときはアメリカ帝国主義者のハワイ侵略、フランス帝国主義者のマダガスカル侵略、ドイツ帝国主義者のマーシャル諸島侵略のときであった。
1898年4月25日に開始された「米西戦争」で勝利したアメリカ合州国は、スペインから2000万ドルで、それまでスペインが植民地としていたフィリピンを購入した。そのような帝国主義国の間の取引きを許さないフィリピン民衆は、1899年1月にフィリピン共和国(マロロス共和国)を建国した。この国家は、その3年前に日本の侵略に抗して建国された台湾民主国につづく、アジアで2番目の共和国であった。1899年3月末に、フィリピン共和国の首都マロロスはアメリカ合州国軍に占領されたが、フィリピン民衆は武装して各地で戦いつづけた。
1899年3月に、義和団に結集した中国山東省の民衆が烽起し、翌1900年春に天津を占領し、北京に迫った。この中国民衆の戦いを抑えることを口実にして、日本軍は、アメリカ合州国軍ら7か国の軍隊とともに中国に侵入した(義和団戦争)。
「日露戦争」開始の1か月前、1904年1月、ナミビア(1884年にドイツの領土とされていた)で、ヘレロ民族がドイツ侵略者との戦いを開始した。だが、ドイツ軍の無差別大虐殺によって、民族の8割が殺害あるいは餓死させられた。ヘレロ民族に続いて、ドイツの侵略に抵抗して、1905年7月末、タンガニイカ民衆(マトゥンビ民族、エンギンド民族、キチ民族、ムブンガ民族ら)が戦いを開始した(マジマジ戦争)。
台湾民衆が抗日反日武装闘争を戦い、東アフリカ民衆ガマジマジ戦争を戦っているさ中、1906年に、朝鮮民衆は独立戦争を開始した。
以上のような、帝国主義諸国の他地域・他国侵略史のなかで、1905年に日本は独島を占領した。
【註】
金靜美「東アジアにおける反日・抗日闘争の世界史的脈略」(『中国東北部における抗日朝鮮・中国民衆史序説』現代企画室、1992年)、および、金靜美「東アジアにおけるインターナショナリズムの歴史」(『故郷の世界史――解放のインターナショナリズムへ――』現代企画室、1996年)、参照。