三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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日本の独島再占領を許さない日本民衆の運動を!

2012年09月10日 | 個人史・地域史・世界史
 以下は、「民衆の生活と闘いを写真に残そう」を目的としている季刊雑誌『パトローネ』62号(2005年7月1日。写真の会パトローネ発行)に掲載された「日本の独島再占領を許さない日本民衆の運動を!」(文・写真 佐藤正人)の全文です。

■釜山近代歴史館で
 2003年7月3日に開館した釜山近代歴史館の建物は、東洋拓殖株式会社釜山支店として1929年に建てられ、1949年からはUSA釜山文化院として使われていたが、1999年に韓国政府に返還されたものである。
 釜山は、日本の朝鮮侵略の拠点であっただけでなく、中国東北部・モンゴル東部侵略の起点でもあった。「日帝の釜山収奪」、「東洋拓殖株式会社」などを主題とする釜山近代歴史館の常設展示は、日本の朝鮮侵略の歴史を多くの資料によって示している。
 この釜山近代歴史館で、4月12日から7月3日まで、「独島写真資料展」(主催:釜山近代歴史館・独島博物館)が開かれている。

■ソウルで
 釜山近代歴史館で「独島写真資料展」を初日に見た翌4月13日朝、わたしはソウルに行った。ソウル駅構内で、国学院主催「独島、日本歴史歪曲資料写真特別展示会」が開かれていた。
 この日は水曜日で、日本大使館前での「日本軍“慰安婦”解決のための第652次長期水曜示威」がおこなわれた。この日午前0時すぎにKBSの時事トゥナイトという報道番組で、「新しい歴史教科書をつくる会」が10日に東京で開いた集会で藤岡信勝副会長が、「今、韓国で従軍慰安婦が定期的に日本大使館の前でパフォーマンスをしている。しかし彼らは本当の慰安婦ではなく、北朝鮮の工作員である。私はそう考えている」と発言する場面が放映されていた。652回目の「水曜示威」では、日本軍性奴隷とされた被害者のホワンクムジュさんがこころのそこからの怒りのことばを語った。
 その1週間後の653回目の水曜示威にも、わたしは参加した。その前日、4月19日に亡くなられた被害者カンスネさんの遺影が、置かれてあった。1時すこしまえ、太平洋戦争被害者補償推進委員会の李熙子さんが、カンスネさんを想う気持ちをはりつめた声で話している時、とつぜん、すぐそばの道路に炎があがった。
 「独島死守」と書いた布を頭にまいた30歳代の人が、石油をかけ火をつけた旗を日本大使館に向けて投げたのだ。その男性は、すぐに私服警官に抑えられ、まもなくパトカーに乗せられ連れて行かれた。「平和! 希望! 生気 秩序 一根一本 人間世界」と書かれた紙が残されていた。
 この653回目の水曜示威の日に、被害者キムヨンジャさんが亡くなられ、その5日後の4月25日に被害者シンギョンランさんも亡くなられた。

     【写真】1 ソウル駅構内での特別展示
     【写真】2 652回目の「水曜示威」
     【写真】3 653回目の「水曜示威」のとき日本大使館前の路上で私服警察官に抑
          えられている人
     【写真】4 現場に残されていた文字

■独島領土化までの日本の侵略史
 1869年に、日本政府は、アイヌモシリの一部を植民地とし、「北海道」と名付け、1872年に、琉球王国を「琉球藩」として日本の領土に組み入れた。
 1876年に、日本政府は、小笠原群島を日本領にすることを、アメリカ合州国、イギリス、ロシア、フランス、オランダ等12か国の公使に通告し、1882年までに住民すべてを日本国籍とした。
 1891年に、日本政府は、「勅令」190号で、「硫黄列島」を日本領にすると告示し、1895年1月、「日清戦争」の最中に、釣魚台を日本の領土とすることを、閣議で決定した。
 「日清戦争」に勝利した日本は、清国との「媾和条約」(1895年5月8日批准書交換)で、台湾・澎湖列島・遼東半島を日本領とした。その後、日本は、宮古・八重山地域を沖縄県に組み入れて領土とし、この地域にすむ人びとを日本の「臣民」とした。それまでこの地域は、天皇(制)と無縁の地域であった。
 1898年7月に、日本は、「硫黄列島」東方の無人島を「南鳥島」と名付け、東京府告示で領土にした。現在、この島が日本領土の最東端となっている。

 「日ロ戦争」開始約1年後、ロシアのバルチック艦隊がヴラジヴォストークに向かっていた1905年1月28日に、日本政府は、独島を自国の領土とすることを閣議で決定し、2月22日に、島根県に「編入」を告知させた。その3か月前、1904年11月に、日本海軍司令部は、望楼建設のために、はじめて独島の本格的調査をおこなっていた。
 大韓帝国政府が日本の独島占領を知ったのは、大韓帝国が植民地(「保護国」)とされた後の1906年3月末であった。
 1910年8月に、日本は大韓帝国を「併合」して、朝鮮半島を日本の領土とした。

■独島と「新南群島」
 閣議決定で独島を日本の領土としてから26年後、1931年7月に、日本政府は内務省告示で「南鳥島」西方の岩礁を「沖ノ鳥島」と名づけて東京府小笠原支庁管轄とし領土化した。中国東北部侵略開始2か月前だった。
 1938年12月23日に、日本政府は、海南島のはるか南方の、ベトナム東南方・ボルネオ島北方・フィリピンのパラワン島西方にある「新南群島」を日本領土に編入すると、閣議で決定し、天皇ヒロヒトは、12月28日にそれを承認した。その1月半後、1939年2月10日に、日本陸海軍が台湾などから出撃して、海南島侵略を開始した。
 海南島占領と「新南群島」の領土化は結びついていた。この年3月30日付で、日本政府は、「新南群島」を、台湾総督府令で高雄市の管轄とした。
 国民国家日本は、閣議決定で、釣魚台、独島、「新南群島」を領土としていた。

■日本ナショナリズムとの対決
 1905年2月の独島領土化は、国民国家日本のアジア太平洋侵略の一環であり、朝鮮全土日本領化の起点であった。
 日本民衆が日本の独島再占領を許すことは、国民国家日本の過去・現在・未来の他地域・他国侵略を肯定することなのだと思う。
 独島の日本再占領を許さない運動を、「北方四島」の日本再占領を許さない運動(アイヌモシリをアイヌ民族にとりもどす運動)とともに、日本ナショナリズムと対決し、日本のあらたな侵略の時代に対抗する民衆運動としてすすめていきたい。
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