三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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国民国家日本の独島占領 3

2012年09月13日 | 個人史・地域史・世界史
■一、欝陵島・独島史
 (2) 欝陵島・独島侵略史
    ②、日本人による欝陵島・独島近海漁業資源の収奪
 1876年2月に不平等条約「日朝修好条規」が締結されてから、朝鮮に日本人が侵入しはじめた(朝鮮総督府庶務部調査課『朝鮮における内地人』1924年)。欝陵島にも日本人が入りこみ、森林資源や漁業資源を奪った。欝陵島は、その名が示すように、樹木が欝蒼と茂っている島であった。
 1877年3月29日付で、日本政府太政官は、欝陵島と独島は日本の領土ではないとする文書をだした。この決定は、同年4月9日付で、内務省から島根県に伝達された。
 1880年に、日本の軍艦「天城」が欝陵島で測量をおこなった。
 1882年12月に、朝鮮政府が「欝陵島開拓令」をだした。
 1883年3月に、日本政府は、欝陵島(「日本称松島―名竹島朝鮮称蔚陵島」)が朝鮮領であると認め、欝陵島への日本人の渡航を禁上し、盗伐や密漁をしていた日本人254人全員を、同年10月に撤退させた(「朝鮮国蔚陵島二邦人渡航禁止ノ件」、『日本外交文書』第14、16巻)。だが、その後も、日本人は侵入した。
 1889年に、日本政府は、不平等な「日朝両国通漁規則」を朝鮮政府におしつけた。
 1896年8月に朝鮮政府代表とロシア民間人が、ソウルで「茂山・欝陵島山林伐採及植樹に関する約定書」に調印し(ロシア人ブリューネル、外務大臣李完用、農商工大臣趙秉稷)、朝鮮政府は欝陵島の日本人を追放した。
 1898年、欝陵島監季周は、松江までいき裁判をして日本人が盗伐した欝陵島の木材の代金300円を支払わせたが、日本人はそれを強奪した(朴殷植『韓国痛史』。「鬱陵島伐木特許二関スル件」、『日本外交文書』第32巻)。
 1901年10月に、大韓帝国政府は、欝陵島を江原道のひとつの郡とし、郡守を任命した(1908年に慶尚南道の郡に移行)。
 1902年3月から、釜山領事館所属の日本人警官が欝陵島に常駐しはじめた。
 1903年に欝陵島に住みついていた日本人は、60戸あまりであった。この年、隠岐島西郷町の中井養三郎が、独島でアシカ猟をはじめた。

   ③、国民国家日本の独島占領
 19世紀80年代ころから日本人は、朝鮮の農地を奪い、漁場を奪った。その収奪の過程で、日本政府は独島を占領した。
 1904年、欝陵島に日本の郵便受取所が設置された。同じ年に欝陵島と日本の境・浜田の間に航路が設置された。
 ロシアの艦隊との大規模な海戦(1904年5月28日)の2か月後、日本海軍は、独島に望樓の建設をはじめた。
 1904年9月29日付で、中井養二郎が、外務・内務・農商務大臣に「りゃんこ島[独島]領土編入並ニ貸下願」をだした。
 1905年1月28日に、日本政府は、独島を日本領とし、「竹島」と命名して、島根県所属、隠岐島司所管とすることを閣議決定した。それまで日本人は欝陵島を「竹島」あるいは「磯竹島」と称し、独島を「松島」と称していたが、このとき日本政府は独島を「松島」でなく「竹島」と命名した。このときまで、日本人が独島を「竹島」と呼んだことはなかった。
 日本政府は、日本式の呼称すら明確でなかった独島を、日口帝国主義戦争のさ中に、日本の領土にしようとしたのである。
 日本が独島を占領する1905年まで、日本外務省は欝陵島と独島の領有権問題を分離することはなかった(すなわち、欝陵島も独島も朝鮮の領土であるとしていた)。また、19世紀末の時点で、日本海軍の水路部当局は、独島を欝陵島とともに朝鮮領であるとしていた。(堀和生「一九〇五年日本の竹島領土編入」、『朝鮮史研究会論文集』24号、1987年、参照)。
 1905年2月22日付の告示第40号で、島根県は、独島(「竹島」)を島根県に所属すると公示し、5月3日に官有地台帳に登録した。
 1906年3月末に、島根県官吏が欝陵島の郡守沈興澤に、独島占領を通告した。大韓帝国政府は沈興澤の報告によってはじめて独島が日本に占領されたことを知った(宋柄基「日本国의“ 島(独島)”領土編入 鬱陵郡守 沈興澤 報告書」、『尹柄奭教授華甲記念韓国近代史論叢』1990年、参照)。その4月まえに大韓帝国は日本の「保護国」(植民地)とされ、1906年3月はじめに日本天皇に直属し大韓帝国の外交権をもつ統監として伊藤博文が赴任していた。
 この年7月に、島根県知事は、「竹島漁猟合資会社」(代表中井養三郎)に独島を「貸与」した。
  【註】独島で日本人がアシカ猟を始めてからまもなく、独島のアシカは絶滅の危機にさらされ
    た。中井養三郎らが1904年度に殺戮したアシカは2750頭であったが、そのうち1000頭が
    子アシカであった。1905~1909年度の5年間に日本人は毎年1000頭以上のアシカを捕獲
    したがその後激減し、1928、29年ころの年間捕獲数は100頭前後であったという(川上
    建三『竹島の歴史地理学的研究』1966年、参照)。日本の占領期に乱獲によって独島の
    アシカは絶滅させられた。
 独島占領の事実は、日本政府の『官報』で公示されず、日本人にも広くはっきりとは知らされなかった。1910年12月に日本大阪で発行された足立栗園『朝鮮新地誌』では、「竹嶼」と記された独島は、朝鮮の島嶼とされている(10頁)。
 1910年末の欝陵島の状況は、
    「移住者総数二百二十四戸、その大部分は隠岐島人でその属島の観を呈し、日本人対
   朝鮮人の在住比は、全鮮第一位の日本人移住者の卓越地であった」
という(吉田敬市『朝鮮水産開発史』1954年)。
 朝鮮総督府の文書によれば、1922年末の欝陵島の日本人は、656人(186戸)で、「原籍地」は、広島県、山口県、大分県、北海道であり、1917年ころの戸数は400あまりであったという。 また欝陵島の漁業組合は1914年2月につくられ、1922年末の組合員は、朝鮮人245人、日本人130人であったという(前掲『朝鮮における内地人』)。
 1939年4月24日に、独島が隠岐島の五箇村に編入された。
 1940年に独島は日本海軍の用地とされ、舞鶴鎮守府に引き継がれた。
 1945年11月1日、日本政府は独島を大蔵省所管の日本国有財産とした。
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