三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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国民国家日本の領土と「周辺」 8

2012年09月26日 | 個人史・地域史・世界史
■(一) 国民国家日本の領土と日本国民
Ⅳ、ベトナム北部侵略以後 1
 ①、「大東亜新秩序」・「大東亜共栄圏」
 1940年7月26日、日本政府は閣議で、日本を中心として「大東亜の新秩序」を建設することを国家の基本方針とするという「基本国策要綱」を決定した【註1】。
 続いて、同年9月4日に、日本政府の首相、外務大臣、陸軍大臣、海軍大臣が、合同会議で、「日満支を根幹とし旧独領委任統治諸島、仏領印度及同太平洋島嶼、泰国、英領馬来、英領‘ボルネオ’、蘭領東印度、‘ビルマ’、濠洲、新西蘭竝に印度等」を日本の「大東亜新秩序建設ノ為ノ生存圏」とする方針を出し、9月19日にヒロヒトらを含む会議で決定した【註2】。
 その4日後、フランスがドイツに降伏した翌日、9月23日に、日本軍が、「仏領印度」北部(ベトナム北部)に侵入した。
 1941年2月3日に、大本営政府連絡会議は、「対独伊‘ソ’交渉案要綱」を決定し、そこで、世界を「大東亜圏、欧州圏(「アフリカ」を含む)、米州圏、‘ソ’聯圏(印度‘イラン’を含む)の四大圏」に分割し、日本は「大東亜共栄圏地帯に対し政治的指導者の地位を占め秩序維持の責任を負う」とした【註3】。国民国家日本の領土拡大は、「大東亜共栄圏」にいきついた。それ以後、日本政府・軍は、ヒロヒトを中心とし、「八紘一宇」をスローガンとし、「大東亜共栄圏」の各地に、日本軍を侵入させた。
 1941年6月6日、大本営陸海軍部は、「対南方施策要綱」を決定した【註4】。そこでは、「対南方施策の目的」(すなわち「南方」侵略の目的)は、日本の「総合国防力」を拡大することであるとされていた。この目的達成のために、この年7月28日に、日本陸軍第25軍約4万人が海南島三亜から「仏領印度」南部(ベトナム南部・カンボジア)に「出撃」した。この「仏領印度」南部軍事侵略の3週間前、7月2日に、ヒロヒトらは、「南方進出」にあたっては「対英米戦を辞せず」と決定していた【註5】。続いてヒロヒトらは、同年9月6日に、
   「帝国は自存自衛を全うする為対米(英蘭)戦争を辞せざる決意の下に概ね十月下旬を
目途とし戦争準備を完整す」
とする「帝国国策遂行要領」を決定した【註6】。
 同年11月5日に、ヒロヒトらは、ふたたび「帝国国策遂行要領」を決定した【註7】。そこでは、開戦時を12月上旬に設定していた。その半月後の11月20日、大本営政府連絡会議は、第2次アジア太平洋戦争開戦を前提として、「治安の恢復、重要国防資源の急速獲得及作戦軍の自活確保」を目的として、占領地に軍政を実施することを決定した【註8】。続いて11月25日に、大本営陸軍部は、軍政実施の具体方針を決め、フィリピン、マラヤ、「蘭領印度」、ボルネオから掠奪する「重要資源」の地域別リストを作成した【註9】。その翌日、11月26日に日本陸軍と海軍は、「軍政実施の担当区分」を決定した【註10】。第2次アジア太平洋戦争開戦の目的は、アジア太平洋地域の資源掠奪と国民国家日本のさらなる領土・占領地拡大であった。
                                      佐藤正人

【註1】
 前掲『日本外交年表竝主要文書』下、文書636~637頁。
【註2】
 「日独伊提携強化に対処する基礎要件」、防衛庁防衛研修所戦史室編『大本営陸軍部〈2〉』〈戦史叢書20〉、朝雲新聞社、1968年、110~114頁。
【註3】
 前掲『日本外交年表竝主要文書』下、文書480~482頁。大本営政府連絡会議は、日本軍参謀総長、日本政府閣僚らの合同会議で、1944年8月に最高戦争指導会議と改称された。
【註4】
 同前、文書495~496頁。
【註5】
 「情勢の推移に伴ふ帝国国策要綱」、前掲『日本外交年表竝主要文書』下、文書531~532頁。
【註6】
 同前、文書544~545頁。
【註7】
 同前、文書554~555頁。この「帝国国策遂行要領」は、11月2日の大本営政府連絡会議で決定されていた。
【註8】
 「南方占領地行政実施要領」、同前、文書562~563頁。
【註9】
 「南方作戦に伴ふ占領地統治要綱」、防衛庁防衛研究所戦史部編著『史料集 南方の軍政』朝雲新聞社、1985年、93~95頁。
【註10】
 「占領地軍政実施に関する陸海軍中央協定」、同前、96~97頁。
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