■三、日本の独島占領の歴史的条件 1
1877年3月29日、当時の日本政府最高決議機関である太政官は、欝陵島とともに独島を日本とは無関係であるとする(すなわち、欝陵島・独島は朝鮮国の領土であるとする)「指令」をだした【註1】。以後、約30年間、日本政府がこの「指令」を取消すことはなかった。
だが、1905年1月に突然、日本政府は、閣議で独島を「本邦所属」とした。
日本は、20世紀にはいってから、独島占領を、①帝国主義諸国の了解・暗黙の同意、②朝鮮植民地化の進行、③「日露戦争」という複合する三つの歴史的条件のもとにおこなった。
軍事的・経済的侵略のためには、侵略する地域・国家に軍隊・植民者を送りこみ、物資・資源を運びだす道路・鉄道の建設、水路調査(航路確定)・港湾整備が必要である。日本政府・日本軍は、そのための基礎作業として、朝鮮の陸地・海域の地形を把握するために、詳細な朝鮮国内地図と朝鮮海域水路図の作成を急いだ。
1876年2月の「日朝修好条規」調印後ただちに、日本政府・日本海軍は、朝鮮沿岸測量の準備を開始した【註2】。
1877年4月から、日本政府・日本海軍は朝鮮沿岸の測量を実行しようとしたが、測量船の手配が進まず、ようやく10月に釜山に入港した高雄丸も船員がコレラを発病し、この年、朝鮮沿岸の測量はほとんどできなかった【註3】。
1878年2月20付けで、外務卿寺島宗則は、太政大臣に咸鏡道、全羅道、忠清道の海岸に測量船をだすことを海軍に指示することを要請し、それに応じて太政大臣は海軍省に3月4日付けでその指示をだした【註4】。
4月28日に、軍艦天城が横須賀港を出発し、釜山を経由して元山および北青の海域を測量し【註5】、5月29日に欝陵島(「松島」)を一周した【註6】。このとき天城は欝陵島の位置を測量したが、これが日本軍艦が欝陵島(「松島」)を測量した始めであった【註7】。その後、天城は釜山を経由して長崎に戻った【註8】。この測量航海のさいに天城は独島に到達しなかった。
1880年7月、軍艦天城は再び欝陵島(「松島」)を測量し、「松島」が欝陵島であることを確認した【註9】。
【註1】
「日本海内竹島外一島地籍ニ編纂方伺」、太政官編『公文録』内務省之部1877年3月伺1の16.『公文録』は日本国立文書館蔵だが、マイクロフィルム化されており、比較的容易に見ることができる。
前掲、堀和生「一九〇五年日本の竹島領土編入」103~104頁、および前掲、愼廈『独島의 民族領土史 研究』164~171頁、参照。
【註2】
「朝鮮近海測量ノ儀伺」、『公文録』海軍省之部1876年4月、および「朝鮮国沿海測量規則ノ儀伺」、『公文録』外務省之部1876年5月。
【註3】
「朝鮮開港ニ関スル件」、『日本外交文書』第10巻、215~245頁。「朝鮮近海測量ノ儀伺」、『公文録』海軍省之部1877年4月。「朝鮮国ヘ測量船発出ノ儀伺」、『公文録』外務省之部1877年5月。「朝鮮国ヘ測量船発出ノ儀ニ付再伺」、『公文録』外務省之部1877年9月。
【註4】
「朝鮮国咸鏡全羅道諸道海岸測量船被差向候儀上伸ノ件」、『日本外交文書』第11巻、284~285頁。
【註5】
外務卿寺島宗則は、4月16日付けの海軍大輔川村純義宛文書で、「天城艦ヲ朝鮮ニ派シ測量セシムル主意ハ開港ニ適ス可キ良港ヲ探定スルニ在リ」としていた(『公文類纂』前編33 M11-27 331)。
【註6】
「測量船天城ノ動静報告之件」、『日本外交文書』第11巻、292~293頁。
「朝鮮国海岸測量日誌」には、「午後四時松島ニ至ル微速島囲ヲ巡航シ見取リヲ為ス」と書かれている(『帝国軍艦天城号朝鮮国沿岸測量一件』外務省外交資料館蔵)。
この時、天城号は、欝陵島の近海にあるとされていた「竹島」を探したが発見できなかった。このことについて、天城艦長海軍少佐松村安種は、同年6月付けの文書で、つぎのように報告している(「朝鮮東岸水路雑誌」、『帝国軍艦天城号朝鮮国沿岸測量一件』)。
「竹島ハ英版ノ海図ニ載出スト雖モ陸軍版ノ朝鮮図ニハ略形ヲ記セルカ故ニ航路ヲ竹島ニ
向ケ進ムト雖モ未タ視目ニ応セス実測ト推測トニ由レハ此島ヨリ六里ヲ離レサルノ位置ニア
ツテ晴天ニ之ヲ視ル能ハサル事ヲ以テ推ストキハ此島ハ必ス無ルヘシト定ムルモ恐クハ大
害ナカルヘシ然レトモ尚オ他日航海者ノ実検ヲ望ム者トス」。
【註7】
北沢正誠「竹島版図所属考」、『日本外交文書』第14巻、394頁。「朝鮮国東海岸略記」、水路局『水路雑誌』第16号、1879年。
【註8】
「天城艦長崎ヘ帰着届」、『公文録』海軍省之部1878年9月。
【註9】
前掲、「竹島版図所属考」、『日本外交文書』第14巻、394頁。
佐藤正人