三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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世界近現代史における独島 6

2012年09月03日 | 個人史・地域史・世界史

■二、国民国家日本の領土・植民地
   2、国民国家日本形成以後 (1)

 1884年12月、日本の軍事支援を予期しつつ金玉均らが、ソウルでクーデタを実行した。この甲申クーデタは、清国とフランスが、台湾おおびベトナムの支配権をあらそって戦争を開始し、朝鮮に侵入している清国軍の兵力が削減されているときに、計画され実行された。
 1894年2月、朝鮮南部で甲午農民戦争が開始された。5月30日に農民軍は、全洲に入り、民衆の政府をたてた。その2月後、7月23日に日本陸軍がソウルの朝鮮王宮に侵入した。日本軍を阻止しようとして朝鮮政府軍は戦ったが、数時間で敗北し、朝鮮国の政治の中枢機関が日本に占領された。
 その2日後の7月25日に日本海軍が朝鮮東海岸の豊島沖の清国輸送船団を奇襲攻撃し、7月27日に金弘集親日政権がたてられた。8月1日に清国に「宣戦布告」した日本政府は、日本陸軍の一部を、朝鮮政府軍とともに、南方からソウルに向かって進軍してくる甲午農民軍と戦わせた。近代兵器をもって攻撃してくる日本軍と朝鮮政府軍にたいし、農民軍は、反日反侵略反封建の武装闘争を戦った。甲午農民戦争は、朝鮮農民軍と朝鮮政府軍との内戦であるとともに、朝鮮民衆の日本侵略軍との反侵略戦争であり、朝鮮において国民国家が形成される決定的な契機であった。しかし、朝鮮政府軍が日本軍とともに、農民軍を圧殺した。
 1895年4月の「日清講和条約」のさいに宮古・八重山地域、台湾、澎湖列島が、日本の植民地とされた。
 「日清講和条約」によって、清国政府は台湾の支配権を日本にわたした。そのことを知った台湾の漢族民衆は、1895年5月25日に、清国から独立した台湾民主国を建国した【註4】。
 その4日後、5月29日に、日本軍は台湾民主国東北端の澳底に上陸した。その後、日本軍は南方に侵攻し、6月17日に台湾民主国の首都台北を占領し、そこに台湾総督府を設置した。
 日本の台湾植民地化をただちに承認したスペイン政府は、1895年8月7日に、台湾とフィリピンの間の海峡中央の北緯線を、太平洋の西部における日本とスペインの「版図の境界線」とするという協定を日本と締結した【註5】。
 1895年10月25日に、台湾民主国の拠点であった台南が日本軍に占領された。アジアで最初の共和国は天皇制国家日本の軍隊によって潰され、台湾民衆に天皇と日本語がおしつけられた。台湾民衆が抗日反日武装闘争を戦っているさ中、10月に日本公使三浦らが朝鮮王宮に侵入し、朝鮮王高宗の妻(死後、明成皇后とよばれた)らを虐殺した。
 日本帝国主義者は、日本の侵略に武装して戦う台湾原住民族の民衆を「凶蕃」とよび、1896年から、大規模な軍隊と警官隊による攻撃を開始した。
 アメリカ合州国がハワイを植民地とした1898年に、日本政府は、ヨーロッパ人がマーカス島と呼んでいた島を南鳥島と名付け、東京府告示によって日本領(東京府小笠原支庁所管)とした【註6】。

【註4】
 黄昭堂『台湾民主国の研究――台湾独立運動史上の一断章――』東京大学出版会、1970年、参照。
【註5】
 「西太平洋ニ於ケル領海ニ関シ日西両国宣言書交換ノ件」、『日本外交文書』第28巻第1冊、292~300頁。
 1898年にアメリカ合州国がフィリピンを植民地としたあとは、それがアメリカ合州国と日本の南方の「境界線」となった。
【註6】
 現在、太平洋上のこの島が日本の最東端となっている。
                                                  佐藤正人

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