日本が海南島を植民地にしていた時期、海南島東北部の文昌縣(現、文昌市)を軍事支配していたのは、日本海軍呉鎮守府特別陸戦隊の兵士を主力とする海南警備府第15警備隊でした。
第15警備隊も他の海南島侵略日本軍部隊同様、住民虐殺、略奪……をくりかえしていました。
日本敗戦後、海南島で侵略犯罪をおこなった日本軍将兵のうちの極めて少数が広東裁判などで裁かれ、一部が処刑されました。第15警備隊文昌中隊長であった兼石績と冨田堯人、文昌中隊小隊長であった望月為吉は、住民を虐殺したとして、1947年7月に広東で処刑されました(「被抑留者(戦犯容疑者)」、『海南警残務処理報告綴』第二復員局残務処理部資料課(防衛研究所図書館蔵)。『本邦戦争犯罪人裁判関係雑件』(外交史料館所蔵)。『外地における本邦人の軍事裁判関係』(外交史料館所蔵)。巣鴨遺書編纂会編『世紀の遺書』1953年12月。岩川隆『孤島の土となるとも―-BC級戦犯裁判』講談社、1995年6月)。
兼石績らが、文昌縣内のどの地域での住民虐殺に加担していたかは、明らかではありませんが、1945年7月30日早朝に30人余りの第15警備隊の日本兵が2隊に分かれて文昌縣羅豆郷秀田村を襲撃し村人140人を殺害していました。
紀州鉱山の真実を明らかにする会は、2004年8月に、松島貫吾氏(1919年生)の自宅を訪問しました。そのとき松島貫吾氏は、
「1942年ころから海南警備府第15警備隊巡査として海南島文昌北部の東坡と発山にいた。
冨田堯人の部下だったことがあった」
と話しました。
海南警備府第15警備隊の海南島での侵略犯罪は、部分的にしか明らかになっていません。
1942年4月、第15警備隊の部隊は、文昌縣東閣鎮の流坑村、流翠村、抱古村、宝芳村等を襲撃しおおくの住民を虐殺しました。流坑村では、4月20日(農暦3月6日)に、72人が虐殺されました。
防衛研究所図書館にある『海南警備府戦時日誌』の1943年8月1日の部分には、「第十五警部隊小隊長以下七二名ヲ以テ七星嶺、白石渓、高龍ヲ結ブ線以内及東路、宝彩山、昌福、東閣市附近ヲ夫々討伐掃蕩セリ 」と書かれています。
ことし、10月下旬に、わたしたちは文昌縣東閣鎮を訪問します。
佐藤正人
第15警備隊も他の海南島侵略日本軍部隊同様、住民虐殺、略奪……をくりかえしていました。
日本敗戦後、海南島で侵略犯罪をおこなった日本軍将兵のうちの極めて少数が広東裁判などで裁かれ、一部が処刑されました。第15警備隊文昌中隊長であった兼石績と冨田堯人、文昌中隊小隊長であった望月為吉は、住民を虐殺したとして、1947年7月に広東で処刑されました(「被抑留者(戦犯容疑者)」、『海南警残務処理報告綴』第二復員局残務処理部資料課(防衛研究所図書館蔵)。『本邦戦争犯罪人裁判関係雑件』(外交史料館所蔵)。『外地における本邦人の軍事裁判関係』(外交史料館所蔵)。巣鴨遺書編纂会編『世紀の遺書』1953年12月。岩川隆『孤島の土となるとも―-BC級戦犯裁判』講談社、1995年6月)。
兼石績らが、文昌縣内のどの地域での住民虐殺に加担していたかは、明らかではありませんが、1945年7月30日早朝に30人余りの第15警備隊の日本兵が2隊に分かれて文昌縣羅豆郷秀田村を襲撃し村人140人を殺害していました。
紀州鉱山の真実を明らかにする会は、2004年8月に、松島貫吾氏(1919年生)の自宅を訪問しました。そのとき松島貫吾氏は、
「1942年ころから海南警備府第15警備隊巡査として海南島文昌北部の東坡と発山にいた。
冨田堯人の部下だったことがあった」
と話しました。
海南警備府第15警備隊の海南島での侵略犯罪は、部分的にしか明らかになっていません。
1942年4月、第15警備隊の部隊は、文昌縣東閣鎮の流坑村、流翠村、抱古村、宝芳村等を襲撃しおおくの住民を虐殺しました。流坑村では、4月20日(農暦3月6日)に、72人が虐殺されました。
防衛研究所図書館にある『海南警備府戦時日誌』の1943年8月1日の部分には、「第十五警部隊小隊長以下七二名ヲ以テ七星嶺、白石渓、高龍ヲ結ブ線以内及東路、宝彩山、昌福、東閣市附近ヲ夫々討伐掃蕩セリ 」と書かれています。
ことし、10月下旬に、わたしたちは文昌縣東閣鎮を訪問します。
佐藤正人