三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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海南島近現代史研究会第5回総会・第8回定例研究会報告 1 

2011年09月01日 | 海南島近現代史研究会
 8月28日に、海南島近現代史研究会第5回総会と第8回研究集会を併催しました。主題を「海南島における日本の侵略犯罪のいま」として、「朝鮮報国隊」と、「海南島戦時性暴力被害訴訟」の二つの課題をとりあげました。
 「朝鮮報国隊」については、韓国からイ・ガンヒさんとハン・グァンスさんをお招きしました。
 おふたりは、1943年ころに「朝鮮報国隊」に入れられ海南島に連行され44年2月17日に陵水で亡くなったハン・ギソクさんの夫人とご子息です。
 イ・ガンヒさんは、はじめての来日で、90歳という高齢にもかかわらず、しっかりとした口調で話しをしてくださいました。
 イ・ガンヒさんは「ソウルからみなさんに話をするためにやって来ました」と前置きをされて、つぎのような内容のことを話されました。

   「20歳のときに結婚してわずか2年後に夫が逮捕された。
    上司の罪をかぶっての逮捕で、半年ほどで戻れると思っていた。
    裁判の時に、子供をおぶっていったが、泣くので法廷に入れてもらえず、夫は子供を見ることができなかった。
    夫は獄中から子供の写真を送れと言ってきたが、当時は簡単に写真が撮れずに送ることができなかった。
    1年後に夫の消息が途絶えた。
    それから連絡が入ったので、夫の父が行くと、カンに入った遺骨を渡された。
    遺骨を埋めたが、その場所が3度ほど変わり、最後は火葬にして、灰を水に流した。それがとてもつらい記憶になっている。
    息子は自分の父親の名を一度も呼ぶことができなかった。
    夫に食事をさせないまま送ってしまったことを今でも悔やんでいる。
    夫の死後は血の涙が出るほど苦労した。
    夫の父親は朝鮮戦争のとき銃殺された。
    夫の兄弟8人の世話と自分の息子を育てるために大変な苦労をした。
    食事を断って死のうと思ったこともあったが、子供をどうするのだ、と言われて、死ねなかった」。

「朝鮮が日本の支配下になかったならば、こんなことは起きなかった。」イ・ガンヒさんは話の中でこの言葉を2度繰りかえしました。 
 続いて、ご子息のハン・グァンスさんが話しました。ハンさんは昨年8月の第4回総会のときも来日され、報告していただきましたので、今回は2度目の報告になります。ハンさんは、つぎのような内容のことを話されました。
   「オモニの来日は最後の機会だと思っていっしょに来た。
    オモニの経験した苦労と比べたら自分の苦労は100万分の1位にも及ばない。
    これまでオモニに苦労をかけないように、という思いで必死に生きてきた。
    兄弟がいて父親がいる家庭を見るといつもうらやましかった。
    これまで勤勉誠実に生き、4人の子供にも恵まれたので、オモニの人生の苦悩を少しでも和らげることができたかと思う。
    この海南島近現代史研究会のことはとても心強く思っている」。
 
 おふたりの話のあとに、質疑応答を行いました。
 遺骨を受け取った時の様子について、イ・ガンヒさんは10人くらいの遺骨箱がまとめて届いていた、と話しました。また夫の死亡状況について説明はほとんどなく、海南島で盲腸の手術で感染して亡くなった、という説明を受けただけだ、と語りました。
 そのあと、キム・チョンミさんが「「朝鮮報国隊」の軌跡」について報告しました(報告の内容は、このブログの8月28日、29日、31日の「「朝鮮報国隊」の軌跡」1、2、3をみてください)。
                                         斉藤日出治
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