三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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紀州鉱山への朝鮮人強制連行 5

2011年09月24日 | 紀州鉱山
■紀州鉱山への朝鮮人強制連行
 第5 被告熊野市の歴史意識

 原告は、被告を熊野市および代表者兼処分行政庁熊野市長としている。
 原告の訴状にたいする被告熊野市の「答弁書」は、被告訴訟代理人倉田嚴圓弁護士と5人の被告指定代理人の名でだされているが、「答弁書」での発言の基本責任は、被告訴訟代理人倉田嚴圓弁護士および5人の被告指定代理人にではなく、熊野市長ら、熊野市の行政担当中心者にある。
 熊野市は、人格をもたないが、ここでは、被告熊野市は人格をもつ熊野市長らであるとして、被告熊野市の「答弁書」に示されている被告熊野市の歴史意識を、訴訟趣旨の根本にかかわって分析し、被告熊野市が、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する土地に課税するという過ちを犯した思想的原因を明らかにする。
 被告熊野市が、過ちを自覚できるなら、ただちに課税を取り消さなければならない。
 1926年1月に、熊野市(当時、木本町)の県道の木本トンネルを開鑿するために働きにきていた朝鮮人を、在郷軍人らを先頭とする地域住民が襲撃し、李基允さんと相度さんを惨殺し、襲撃をのがれた朝鮮人とその家族を住民が徹夜で山狩りした。「事件」を『熊野市史』中巻(1983年、熊野市発行)では「木本トンネル騒動」あるいは「木本隧道工事のさいの朝鮮人騒動」といい、熊野市民が朝鮮人を襲撃・虐殺したことを、「木本町民としては誠に素朴な、愛町心の発露」であったとしている(1032頁)。
 原告らは、1989年いらい、これまで、熊野市と熊野市教育委員会に『熊野市史』の書きかえと謝罪を要求しつづけているが、熊野市はいまだにこの記述をきちんと取り消しておらず、朝鮮人を虐殺したことを「誠に素朴な愛町心の発露」としつづけている。
 被告熊野市が紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する土地に課税し、それを取り消していない問題と『熊野市史』における差別発言を取り消していない問題の根はつながっている。
 被告熊野市は、“「強制連行」は「徴用」と同義”という誤った前提のもとに、「強制連行」は「国民徴用令」による連行だけであったという詭弁をのべ、そのさい、つぎのように付言している。
     「なお、「徴用令書」の対象となって「徴用」された232名の朝鮮人の場合には、これに応じないと罰則を課せられるという意味で「強制」の契機はあったものの、日本人でも「徴用令書」の対象となった場合に拒否をすればやはり罰則を課せられたのであって、その点では、何ら日本人と異なるところはなかったのである」。

 被告熊野市の「答弁書」中のこの発言に、被告熊野市の歴史意識の悪質さ、誤った歴史認識が凝縮して示されている。
 被告熊野市は、朝鮮人になぜ国民国家日本の「国民徴用令」が「適用」されたのか、その歴史的原因をまともに考えたことがないのであろう。もし、その原因を真剣に考えることができれば、朝鮮人が国民国家日本の「国民」とされたことを当然であるかのように叙述することはできなかっただろう。
 被告熊野市は、「「強制」の契機はあったものの」とわけのわからないことを前提としつつ、「何ら日本人と異なるところはなかったのである」と言っているが、国民国家日本の植民地朝鮮に生まれ生活していた朝鮮人は、国民国家日本の「国民徴用令」を「適用」され、父母姉妹兄弟妻子と切り離され日本に強制連行され強制労働させられたのである。
 朝鮮人は、「皇国臣民」となることを強制された。紀州鉱山に強制連行された朝鮮人も例外ではなかった。日本鉱業協会が1940年12月に会員だけの「密扱」文書として発行した『半島人労務者ニ関スル調査報告』の紀州鉱山に関する部分には、
     「訓練期間中凡ゆる指導期間を通じ、折に触れ日本臣民にして産業戦士として来山せし旨を鼓吹し、又皇国臣民の誓詞の奉誦に努めしむ」、
     「半島人は如何なる作業に適するやに就きての感想。例外的には機械操作即鑿岩機取扱に長ずる者もあれど、一般的には運搬夫の如き簡単なる作業の力仕事を請負にて為さしむるときは、殊にその特長を発揮する様に思はる」
などと書かれている(141頁、143頁)。
 紀州鉱山が、このような報告を日本鉱業協会におこなったのは、1940年12月以前であり、1942年2月に「官斡旋」方式での朝鮮人の日本への強制連行が開始される以前であった。
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